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のびたの日記

ああ あの踏切だ 小学生の私はここでずっと電車を見ていた 

2016年06月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



テレビの画面に 懐かしい大踏切が映し出されていた
廻りの風景は変わっているが まだ歩いて渡る大きな踏切は 当時と同じである
この付近の街に 私は小学校5年の後半から 中学1年の前半 2年間住んでいた
 

 
文明の進化に取り残されたような 信州高遠から更に山奥に入った寒村がある
ちょうど小学校1年生から5年の前半は この村に住んでいた
それこそ 電気もガスも水道も無い あげ句は冬になれば食べるものも無い
 
餓死寸前の私は 栄養失調で 父親は出稼ぎに出て次は会えないと思ったと言う
幻覚まで見たことを妹と最近まで笑って話合ったが その妹は昨年秋亡くなった
そんな田舎から出てきた街が この踏切のある千住であった
 
全校生徒で30名余の田舎の学校 都会の学校の人数は多かった
友達は出来ない ある日 常磐線の鉄橋から荒川に数名で飛びこむ
私も飛び込んだが泳げない もがいているうちに流され反対側の岸にたどり着く
 
勉強には付いていけないと思っていたが 何と一年遅れに感じるほどだった
私には復習をしているようで この点では安心できた
それが いじめっ子たちの標的になる原因だったかもしれない
 

 
貧しい我が家は 遠足や修学旅行には行けなかったが 別に貧乏は何とも無い
近くに納豆工場があり 私は母親に起こして貰い 早朝 日暮里の街を売り歩いた
経木に包まれた納豆30個を仕入れて 明け方の街を なっとう〜と声を出して歩く
 
買い取りであるから売れ残ったら大変 売れるまで路地を廻る
学校へ遅れることもたびたびあった 
冬のある日は 売れ残りの納豆を持って 冷たい風を除けて佇んでいた
 
塀の戸が開いて おばさんが声をかけた 寒いだろう 全部買ってあげるよ
今でも覚えていることは 人の情けの嬉しさが 幼い心に沁み込んでいるのだろう
親父は鉄くず拾いをしたり 日雇い人夫で どぶさらいに付いて行ったこともある
 
ちょっと酒乱が難点だった 夜勤帰りで 何かの原因で母親に殴ったり蹴ったりする
止めに入った私も殴られて顔にあざが出来た それで学校へ行ったら皆に笑われた
街で父と一緒に歩いていても 喧嘩をし始める 私が必死で止める
 
千住の街に パチンコ屋さんが何軒かあった
玉を一つ入れて弾く古いもの 並んでいる台の後ろに お姉さんが球の補給をする
入れそこなった球が落ちている 客の足の間を球を拾って歩く 23個入れて遊べる
 
盛り場のレコードが聴こえてくる 小学校で音楽を習った記憶が無い
でも 聴こえる流行歌はすぐ覚えてしまった
上海帰りのリル 啼くな小鳩よ 人生の並木道 今でも介護施設で歌ってもらう
 

 
納豆売って 稼いだお金は全部 母に渡してしまう
そんな私の唯一の楽しみは 毎日 大踏切へ行って 電車を眺めることである
手回しの大きな車を回しているおじさんが踏切番だ
 
常磐線もあるが のんびり見ていられるのが東武線であった
上りは浅草が終点 下りは行き先がいっぱいある
日光 宇都宮 大間々 伊勢崎 などと知らない土地ばかり でも名前は覚えている
 
電車に乗る夢は有った あの先にどんなまたがあるのだろう
トンネルがあって 鉄橋があって 山や川が見える 家並みが見える
見知らぬ土地へ 電車を通して夢見て いつまでも行き交う電車を見ていたのだ
 
一度だけ 終点の浅草まで乗ったことがある
5円だっと記憶しているが 正しいかどうか分からない
浅草で降りた 観音様があることもと意地の私には分からない
 
ただ 松屋のビルに電車が入って行くのが驚きだった
周りには 今なら56階建てのビルは珍しくないが 私には驚きの風景だった
逃げ帰る様に 帰りの切符を買って浅草駅から千住へ来てホッとしたものである
 
いつも見ていた大踏切が車窓から見えた
そこには私は居ない 勿論電車の車内から見ていたのだ
あの踏切 私にとって懐かしい以上に 思い出のフィルムが秘められている
 
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
 
 



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