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江戸幕府経済の中心地日本橋 

2016年05月25日 外部ブログ記事
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江戸時代の日本橋は、御公儀橋でした

江戸経済の中心地の往来の横には『さらし場』も!
主殺し、僧侶の女犯などの罪人が伝馬町牢屋敷から引き出され、夕方まで大衆にさらされた
日本橋にの脇に高札に、幕府の法度や犯罪者の人相書きなどが板面に貼り出された
歴史REAL「大江戸八百八町」記事参考&引用






徳川慶喜の筆









日本橋(歴史REAL「大江戸八百八町」記事他ネットより引用)

日本橋の格は“ここ”が違う
日本橋は、徳川家康が町割をした際に、日本橋川に架けた「日本の中心の橋」として誕生しました
江戸幕府によって架けられた橋は、御公儀橋と呼ばれたが、日本橋はその第1号です
欄干の柱頭に銅製の擬宝珠が施されていました(現在は獅子と麒麟のブロンズ像)
全国道の原点の印が橋の道路中央に埋められていた
橋の長さは約50M

日本橋の意義はその立地にありました
日本橋から、江戸城と富士が一望できた
参勤交代の武士、旅人たちが、日本橋から江戸をみると見えたのは江戸城です
彼方に鎮座する富士山を見渡す景観は、無言のうちに江戸の威光を放っていました
上方を嫉妬させるに十分なこの景観は、絵師たちが競って描き、江戸土産として諸国に知れ渡った

徳川家康の肝いりでつくられた橋と町
江戸幕府を開いた徳川家康は、大普請を宣言し町づくりに乗り出した
その時、真っ先に手がけられた普請が日本橋の架橋でした
江戸城の拡張よりも優先され、橋の周辺には町人や職人の町が区画整理され、江戸の顔と化していきました

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