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古地図と伊能忠敬 

2016年05月24日 外部ブログ記事
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伊能忠敬が地図を作ることになった要因

江戸時代、正確な日本地図を作ったことで知られております
地図作りのため、測量を始めたのは、50歳を過ぎてからです
BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組参考&引用






















伊能忠敬「BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組画面引用」

伊能忠敬略歴
千葉県佐原の街で、商人として大成功を納めた伊能忠敬
隠居した後に、暦学(れきがく)今で言うカレンダー作りの学問にのめり込みます
カレンダー作りの過程で、日本地図の作成に結び付けました
暦学を究めたい忠敬と、当時の江戸幕府を取り巻く国際情勢が絡んでいました
伊能忠敬の作った正確な地図が、外国の脅威から、日本から追い払うことにもなりました

伊能忠敬、高橋至時に師事時代
暦学勉強の為、50歳過ぎてから、19歳年下高橋至時に弟子入りし勉学に励みました
忠敬は、『授時暦』についてはある程度の知識がありました
忠敬は天体観測についても教えを受け、自宅に天文台を作り観測を行なっいました
忠敬が観測していたのは、緯度の測定、日蝕、月蝕、惑星蝕、星蝕等です

子午線一度の距離測定
師匠至時と重富は、新たな暦『寛政暦』を完成させたが、至時は、この暦に満足していなかった
暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた
忠敬は、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度経度の距離を求められると思い測量を行なった
師匠は、忠敬に正確な値を出すために、江戸から蝦夷地ぐらいまでの遠距離を測れとアドバイスを受けた

第一次測量(蝦夷地)測量の許可
日本において、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた
日本側も最上徳内らによって蝦夷地の調査を行い蝦夷地の地図を作成した
至時は、北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た
蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである
事業の担当として忠敬があてられ、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された
当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めた

第2次〜第10次測量場所
第二次測量(伊豆・東日本東海岸)
第三次測量(東北日本海沿岸)
第五次測量(近畿・中国)
第六次測量(四国)
第七次測量(九州)
第八次測量(九州第二次、種子島・屋久島・九州北部)
第九次測量(江戸府内)
第十次測量(江戸府内)

地図作成作業と死
伊能忠敬は、弟子たちに見守られながら73歳で生涯を終えました
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められました
忠敬の死後3年『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図は完成しました
景保と、忠敬の孫忠誨らは登城し、地図を広げて上程し、忠敬の喪が発せられました

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