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オバマはトルーマンの原爆投下を正当化「指導者は戦争時の判断を迫られる」 

2016年05月23日 外部ブログ記事
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『さらにオバマ大統領は、訪問で被爆者に謝罪する考えはないとしたうえで、「戦争のさなかに指導者はあらゆる決定を下すということを忘れてはならない。それを検証するのは歴史家の仕事だ。7年半、同じ立場に身を置いた者として、指導者がとりわけ戦争時には極めて難しい判断を迫られることを知っている」と述べ、今回の訪問は原爆投下の是非を論じることが目的ではないと強調しました。』とオバマ米大統領は「NHKの単独インタビュー」で語りました。


アメリカ国内では、広島・長崎への原爆投下によって日本は降伏したのだ、50万〜100万人のアメリカ兵の命が助かったのだという「神話」が根強くあります。
しかし、当時の政府と軍部とりわけ陸軍は「国体護持」のためには飽くまでも「本土決戦」を辞さずとの態度でした。
そのためにソ連による和平工作に望みを託していたことは、「歴史家の仕事」でもなく、防衛省研究所の文書でも明らかになっています。
8月9日のソ連参戦によってポツダム宣言受諾せざるを得なくなった昭和天皇と政府は、10日に御前会議を開きました。

防衛研究所戦史センター長庄司潤一郎氏の論考
「戦争終結をめぐる日本の戦略」『戦争史研究国際フォーラム報告書:太平洋戦争とその戦略』(2010年3月)

管理人は以前、中国人遺棄毒ガス被害者損害賠償請求訴訟の支援団体「毒ガス問題を考える会(毒ガス被害者をサポートする会)」事務局長をしていました。
そのサイト「事務局長のひとこと」欄に下記の記述があります。
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・
「事務局長のひとこと」
2月11日、山森良一弁護士にお供して宮城県へ毒ガス弾を遺棄した元兵士の聞き取り調査に行ってきました。
その方は04年9月に高裁で証人となった小林利男さん、陳述書を提出した戸口好太郎さんの戦友で関東軍第一方面軍直轄第16野戦兵器廠技術軍曹(下士官)だった鈴木さん(83歳)です。
鈴木さんは大変お元気で軽自動車を自ら運転をして私達を駅からの送迎をして下さいました。また記憶もしっかりしていて当時の年月日を正確に覚えていました。
聞き取りは午後1時から5時までの4時間に及びました。
開口一番に麻生外務大臣が「兵士は天皇陛下万歳をして死んでいった」といっているがとんでもない。シベリアで寒さと飢えで死んでいった6万人の兵隊達は何も言わずに死んでいった。死ぬ間際に言ったとしても「お母さん」とは言ったかもしれないと怒っておられました。
今回の調査で得られた成果は
1)署名捺印し陳述書として裁判所に提出しても良いことを快諾していただいたこと。
2)所属兵士による戦友会があり、箱根で秋に戦友会を開催していることと、1984年11月に「追想」という会誌を発行していたことが判っかたこと。(会誌は山森先生が拝借してきました。)
3)会誌の中には毒ガス弾を遺棄した兵士の記述や小林さんの部隊がいた野積み弾薬庫位置が明記されたイラストもあったこと。
4)鈴木さんは兵器廠本部があった敦化市大橋(たいきょう)勤務であったために第一方面軍からの命令・伝達についての具体的証言が得られたこと。
5)大橋駅南方約1キロメートル地点から東側に沙河沿飛行場までの専用鉄道線が分岐していたことは前回の調査で現認していましたが(現在セメント工場でそのレールを使用している)大橋駅西側にも専用線が分岐されいて毎日弾薬を積み卸して野積みにしていた。
さらに敦化へのトラックが通れる作戦用道路を本部から奥の方につくっていたがその奥に洞窟を掘って弾薬庫にしていたこと。
6)8月17日に「一切の戦闘行為を停止する」第一方面軍依命通達があり、部隊長から天皇の終戦の詔勅を聞かされた。18日にジープに乗ってきたソ連の軍使と部隊長が会談をした後に小銃と銃剣の武装解除があった。19日20日21日22日の暗くなってから命令によって作戦用道路の脇に約2?四方、深さ約2?の穴を掘り、瓦斯弾を木箱の儘埋めた。トラックはライトを付けないで運んでいた。朝になると幕舎の中で寝ていた。瓦斯弾を選別したのは弾薬班である。川の橋の上から瓦斯弾を捨てたという話も聞いた。
以上遺棄した状況の証言が得られたこと。
7)敦化などに多数の弾薬(瓦斯弾も)が集積されたのは「ト号作戦」によるものである。「ト号作戦」とは本土、朝鮮半島に近接したラインまで防衛線を下げる大本営の作戦。大砲、戦車は本土と南方に運ばれたから弾薬だけとなったのであるとハッキリと説明された。
河東に部下10数名を連れての出張中にソ連侵攻となり戦車砲による戦死者戦傷者がでたが戦死者は牡丹江で荼毘に付して大橋まで持ち帰った。戦死者の遺骨は敦化に埋めてきた。遺骨収集に行きたいと思い厚生省、外務省に電話をしたが中国ではできないと言われたが諦めきれないし、心残りであると言われたことが重く印象に残りました。
詳細なことについては山森先生が陳述書原案として書かれると思います。
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・
(「ト号作戦」はつづく)

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