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雑感日記

昭和41年、(1966)33歳 レース担当最後の年 

2011年01月24日 外部ブログ記事
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★昭和41年、3年間担当した広告宣伝もレース関係も、最後の年となった。
この若い30歳代の最初の3年間に、この仕事を担当したことは、
いま振り返ってみると、
これで私の人生の生き方とか、会社での物事の判断基準とか、これら人生での基本的な部分が、この3年間の間で培われて、
大げさに言えば、77歳になった今もなお、この3年間で貯め込んだ大きなエネルギーを使いながら生きていると言っていい。
 
レースの世界で経験した、いろんな人間関係、
競争というものの持つ厳しさとその本質、
広告宣伝というマーケッテングをベースにした、人の心理の研究、
それらを、教えてくれる社内の上司もいなくて、それらを教えてくれたのはみんな外部の人であった。
 
極端に言えば、
ホンダ、ヤマハ、スズキなどの経験豊かな人たちや、広告代理店の本社スタッフに学んだし、
カワサキの二輪事業のホントのリーダーは、この二輪業界を強烈な個性と、高いビジョンを掲げて引っ張った本田宗一郎さんがある意味ホントの社長だったのかも知れない。この業界でのホンダのリーダーシップはすごかった。みんなホンダを見てついて行ったのである。
先頭の走るスピードが速いのでついて行くだけでも大変であった。三菱重工業や富士重など大企業はこの事業を見限ったのか、ついていけなかったのか、とにかく浜松の企業以外に残ったのはカワサキだけだったのである。
カワサキの二輪事業に携わった当時の人たちは、川崎重工業の体質とは一味違ったものを、自然に身につけて育っていったそんな時代だったのである。
 
★カワサキもアメリカ市場への進出が始まり,GPレースもこの年から始まった。
モトクロスのほかにロードレースも始まり、GPレースも秋の日本GP出場を目標に開発が進められることになる。
カワサキのレース活動も実質3年目を迎えて、私自身もMFJの運営委員として業界の会議に出席するようになった。 
富士スピードウエイでのGP開催を主張するスズキ、ヤマハと、あの須走り落としと言われた第1コーナーが危険と反対するホンダと意見が合わずに、最後はホンダは出場を見合わすと言う、ホンダ抜きの日本グランプリが開催された年でもある。
この年の仕事始めは、スズキから移籍した藤井敏雄君との契約交渉が1月5日から始まりそれが初仕事だったのである。
モトクロスでは、今でもヴィンテージMXなどでは人気のF21Mが、名メカニック故松尾勇さんの手によって造られた年でもあった。
7月にF21M が出てからは、モトクロスでは圧倒的に勝利をおさめ連戦連勝であったのだが、レース運営とライダー契約を担当していた私には忘れられない大変な年でもあったのである。
この年のこのころ、ビートルズが、日本にやってきた。そんな年だった。
 
★8月27日、FISCOの1000キロ耐久に来ていた私に飛び込んできたニュースは、マン島のプラクテイスでの藤井敏雄の転倒による突然の死だったのである。
その日のうちに留守宅への連絡、9月1日にマン島からの遺体の引き取り、9月3日葬儀など、全く未経験のことで走り回ったのである。
藤井敏雄君とは1月の契約時点で、本人のたっての希望で、ライダー契約は結んでおらず、単なるマシンの貸与契約だったのである。
確かに、会社と本人との間には何の関係もないので、レースの世界の解らない人の中には、会社は一切関係ないなどと言い出す人もいて、そのあと処理は、説得するのに大変だったのである。
マン島から送り出してくれたのは、たまたまドイツに留学中の大槻さんで私が羽田でお迎えをしたのである。
そのころの話をスズキの中野さんが纏めておられる『日本モーターサイクルレースの夜明け』という労作の中に、『藤井敏雄君の想い出』として寄稿している。
 
★そんなことがあってすぐ、カワサキは鈴鹿のデグナ―カ―ブと名付けられて知られているドイツ人ライダーデグナ―と初めて外人ライダーとの契約を結ぶことになった。
外人との契約はどのようにするのか、社内には聞く人がいなくて、ホンダのMFJ運営委員をされていた前川さんに9月10日に鈴鹿まで出向いて懇切丁寧に教えて頂いたのである。
私が日本語の原文を作り、当時の山田部長(のち川重副社長)に英文で作って頂いたのである。
当時は英語など喋る人は通訳だけといった時代だったから、神戸のオリエンタルホテルにデグナ―を迎えたのだが、『グッドモーニング』とだけ言って、明石まで一言も喋らずに、車で連れてきたのである。
そのデグナ―は、9月29日のFISCOの練習走行で転倒し、脳出血で入院、10月21日に無事退院はしたのだが、その間も大変であった。(詳しくはこちらの記事に書いてあります。)
そんなことで契約はしたが、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。 おまけに日本円で契約してしまったために、国外に持ち出せないとのひと悶着もあって、日銀に顛末書を書いてやっと何とかなったと言う後日談までついたのである。
この年のレースは他にもライダー関係はいろいろあって大変であった。 
ほとんどが大変な話の中で唯一、おめでたい話は、山本隆君に仲人を頼まれて、33歳の若さで仲人を引き受けている。 
頼む方も頼む方だが、引き受けるのも厚かましい限りである。お陰で私は、その後立派になった、3年連続MX全日本チャンピオンの山本隆君、60おじさんに、今でもエラそうに言えるのである。
もうひとつ、これは日記にそう書いてあるだけで、忘れてしまっているのだが、
この年の11月9日、星野一義君が『車を買いたいのですが?』と家まで相談に来ているのである。
あの『日本一速い男』と言われた星野一義君の契約1年目である。まだ10代のチームのみんなに可愛がられていた少年時代のカワサキの星野一義であったが、レース場では、優勝の連続だったのである。
 
★日本グランプリもいろいろあったが、何とか終わって、
10月18日に、苧野常務から突然仙台への異動話があった。
当時のカワサキは実用車の時代で、九州と並んで東北は、主力市場であった。九州市場にはこの年の春から新しく事務所を新設して矢野部長と岩崎さんが担当して成果を上げていたのである。
仙台にも新しく事務所をという話は、当時の岩城社長が東北の代理店の社長と約束して近いうちに開設れると言うことは聞いていたが、まさか自分にお鉢が回ってくるとは夢にも思っていなかったのである。
当時の代理店の社長さんがたは、各地の名士が多く、30になったばかりの若僧では荷が重すぎるし、営業などの経験は皆無だから、大変だとは思ったが、
言われたら仕方がないと家内にも相談せずに、直ぐ引きうけてしまったのである。
 
★その後も11月には東京モーターショーや、年末にかけては、翌年度のライダー契約などもあったが、11月末までにはそれらを全部片付けて、
12月からは、仙台転勤の準備に入ったのである。
入社以来、初めての転勤である。
転勤先に、事務所があるわけでもない。事務所どころか人もいない、何にもナイのである。
『向こうに行ってから、代理店の社長さんたちと相談して上手くやれ』という指示なのである。
3年前に、広告宣伝を担当した時も、前任者はいなかった。 白紙に勝手に絵を描いていったのである。
私は、どうも性格的に直ぐに新しい環境には慣れて、あまり悩んだりすることはないずぼらな性格だから、何とかなったと思うのである。
いまから思うと、会社は何の用意もしない、いい加減な転勤であったのである。
多分、上の人は何をしたらいいのか解らなかったのだと思う。
 
私の広告宣伝課の3年間、いろいろあったが、予算がいっぱいあったのがよかった。
広告宣伝など、予算がなかったら、することなどないのである。
本社が、カワサキの二輪事業のスタートのために、開発費で広告宣伝費を1億円も負担してくれたのは、この3年間だけだったのである。そういう意味では、ツイテいた。
お陰さまで広告代理店の本社企画部門とのお付き合いが出来て、広告とは何ぞやという核心の部分を経験することができたのである。
 
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