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雑感日記

入社10年、新人の時代を振り返って  自分史 

2011年01月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★昭和32年4月、当時の川崎航空機工業(株)に 入社した。
新人時代を含めての、10年間の自分史を書き終えた感想である。
 
★川崎航空機という会社自体が、戦後の中断期間もあって、入社したころはいろんな意味でまだ、未成熟な若い会社であったとも言える。
最初に配属された、財産課は財産台帳すら完全に整備されていなかった。
ただ、当時東洋でただ一つの米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場で、米軍が駐在していたし、その時代にIBM室があったりしたのである。
いろんな管理システムや発想もアメリカナイズされていて、そういう面では先進的であった。
入社後すぐ、償却計算のIBM化など、民間では考えられないことを手掛けたりして、入社間もない新人時代から上司に仕事を教わることなく、勝手に育っていったような気がする。
 
★学生時代から患っていた結核の治療に4年目から1年間、療養生活をして、退院してきたら、
新しい事業として、単車の一貫生産が始まっていて、その営業部門に配属されたのである。
二輪の一貫生産自体が初めてのことで、明発、メグロという二輪の会社を買収して販売を開始したのだが、その経験のある上司もほとんどいなかったのである。
さらに、当時の日本能率協会の調査の結果、『事業として見込みあり』と判断された二輪事業だが、その条件の一つであった、広告宣伝など誰も経験がなかったのである。
同時に、ホンダ、スズキ、ヤマハといった浜松の一種独特の企業との競争で、レースの世界など全く未経験の分野だったのである。
そんな分野を担当して、何かと文句は聞いたが、上司が仕事を教えてくれたことは、皆無と言っていいほどだったのである。
 
★この合間に、結構熱烈に恋愛をして、結婚もしている。
給料は、入社時が12000円、結婚するころも30000円に届くかどうかというところだったから、今と比べたらまさに貧困生活であったと言っていい。
レースなど担当したお陰で、出張旅費があったから、その余りが小遣いであった。
そんなことで、結婚以来、決まった小遣いなど一度も貰ったことはない。
後半の5年の間に、立て続けに二人の子供が出来て、育児の手伝いはしたのだが、出張が多かったから家内は大変だったと思う。
 
★7年目の広告宣伝課からは係員の資格ではあったが、課長は部長が兼務だったので、管理職を無理やりやらされたし、
販売会社を作ってからは課長という辞令を貰って気分よく仕事ができた。
大体二輪事業という世界に販売会社を展開する事業だから、後には『掛長の社長』なども出現したのだが、当時はまだ国内だけだったので、『そのはしり』みたいなものであった。
会社の人以外との接触が多かったのも、いい経験になった。
特に当時のライダーという一種独特の世界の人たちを実質部下みたいに持って、その人たちを統制して動かす難しさは、学生時代勉強などせずに運動部を統括してきた経験が大いに役に立ったと思っている。
ライダーの契約問題や、レース方針、本社開発費であった広告宣伝費など、当時の事業のトップたちと直接話をしたり指示を受けたりするケースが多くて、そんなことに慣れてしまってこの期間以降も、どんなに偉い人とでも、ビビったりせずに普通に話ができる体質になってしまった。
川崎航空機の社長さんだった砂野さんのコネで入れて貰った会社だし、
その一番偉かった社長さんとは中学生の頃は、伯父の知人の『ただのおじさん』として話をしていたので、余計にそうなってしまったのかも知れない。
その砂野仁さんは、川崎航空機から川崎重工業に戻られて、川崎車輛を含めての3社合併後の初代の社長をなさっている。
 
★ただ、会社を退職するまで、この会社は『入れて頂いた会社だ』と言うことは、忘れたことは一度もない。
『給料が安い』などと思ったこともないし、『人事の異動』なども自分の希望など一度も言ったことはない。
最初の10年間も、ただ言われたことを、自分では『ちゃんとやれた』と思っている10年間であった。
入社した時に、最初の10年は、『周囲に好かれるように』と思っていたのだが、大体その目標は達成できたと思っている。
 
 昭和32年、(1957)  川崎航空機入社
 昭和33年、(1958) 新入社員2年目、青春時代
 昭和34年、(1959) 入社3年目、熱中の始まり
 昭和35年、(1960)  IBMでの機械化そして入院
 昭和36年、(1961) 入院生活、そして退院、単車営業に
 昭和37年、(1962) 単車営業に異動そして結婚、スタートの年
 昭和38年、(1963) めちゃ忙しかった会社、父になった
 昭和39年、(1964) 日本も自分も変わったー?
 昭和39年、(1964) カワサキレース本格的にスタートの年‐?
 昭和40年、(1965) 前半、32才、カワサキ自販に出向
 昭和40年、(1965) 後半 免許が取れた、いろいろあった新しいこと
 昭和41年、(1966) 33歳 レース担当最後の年

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