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坐禅と禅宗(2) 

2016年05月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



文字や言葉で教えることを避けて坐禅で勧める理由

自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになる
「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない」
 ☆本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができない
 ☆食べ物を説明しても空腹がなおらない
自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説く
その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できるとする
建仁寺の僧侶より講話を頂きました






















禅宗(ネットより引用)

「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」
いつどこにあっても、如何なる場合でも主体性をもって真実の自己として行動する
力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来る
いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い
その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来る

釈尊最後の説法の「自灯明 法灯明」
汝らは自らを灯明とし、法を灯明とし他を拠りどころとすること無くて修行するものこそ最高処にあり

禅宗の坐禅における禅定の種類
愚夫所行禅(凡夫・外道が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地)
観察相義禅(小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地)
攀縁如実禅(大乗の菩薩が、中道を覚って三業を忘れ、有るでもなし空でもなしと達観する境地)
如来清浄禅(如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた)

教宗の学(真言宗の三密、律宗の戒律)
只管打坐(しかんたざ)⇒ただひたすらに坐禅を実践せよの意味
公案禅(こうあんぜん)(公安=悟りの境地を指し示したもの)
 ☆悟るためには坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である
 ☆修行者に公案を与え、公案の答えを考えさせるのです
内観
 ☆大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる
 ☆無始無終の生死の迷いを打破するには、少しばかりの艱難辛苦なしには得られるものではないという覚悟が必要

日本の禅の教義
中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったが、比叡山の影響の大きい日本の禅の宗派は教義を展開しました
自分自身の内面に本来そなえている仏性を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行をします
仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指します
得た悟りから連想される智慧を以て生滅の因縁を明らかにし、六道を解脱して涅槃に至ります
師家が修行者に面と向かって臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに本性を指し示す道です
仏祖と同一であるという境地に到達した者は、仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行う

現代の坐禅に評価
坐禅で、セロトニン神経が活性化され、通常とは異なる独特なアルファ波が発生する
坐禅は、精神的安定や心身の健康の一因の生理の教授です

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