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久留米城跡・篠山神社 

2016年05月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

久留米城跡・篠山神社


案内マップが色あせていたので前回(5年前)写したのをUP




冠木門跡前に狛犬がいます





 文政庚寅か?
文政に庚寅は無く天保元年(1830)になります  
文政戊寅なら文政元年(1818)

 文政のゴツゴツ君     阿は玉くわえ


















石垣に狛犬もいいです










石垣も良いです 新幹線高架が見えます



角に乗る 結構高いです

篠山神社 本丸御殿跡



拝殿前の大きな対


良い彫りしてます




















明治十二年(1879)




大きないかつい狛犬です

















参道の見事な松


拝殿

拝殿の蟇股


拝殿 横から


本殿は塀で囲われ見えにくいです











大井戸と稲荷社




東郷元帥旧書斎



コンクリート砲弾碑


篠根(ささかね)神社


この看板は今は無くなっています

篠根(ささかね)神社の狛犬





築後型?


ごつい顔

城跡の片隅に小早川神社
祭神は小早川秀包(ひでかね)
いまいちマイナーですが毛利元就ブラザースの9男
本来なら小早川家を継ぐ男でした


小早川神社があります


久留米城は小早川秀包が築城しました。
秀包が小早川家を継いでいれば関ケ原はまた違った結果だったかもしれないです


秀包は永禄十年(1567)毛利元就の九男として生まれる

天正七年(1579)に兄の小早川隆景の養子となります

天正十一年(1583)人質として甥の吉川広家と共に大坂の秀吉に送られた際に「秀」の字を賜り秀包(ひでかね)と改名する

天正十五年(1587)小早川秀包が久留米城を築きました
肥後国人一揆の討伐軍の総大将として出陣し立花宗茂と共に戦功を挙げた。
宗茂とは意気投合し、義兄弟の契りを結んだ。

天正十六年(1588)秀吉により羽柴姓を許されます
天正十七年(1589)秀包は侍従に任官
 「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになります
大友宗麟の娘を妻とした縁もあり受洗。
洗礼名をシマオ(Simao)とした。

文禄・慶長の役では1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵。
大鼓城の攻城でも戦功を挙げ碧蹄館の戦いでは隆景、立花宗茂と共に明軍を撃破。
その戦功により筑後久留米のまま五万五千石を加増されて
十三万石となり、筑後守に叙任された。


文禄三年(1594)秀吉の養子・木下秀俊(のちの小早川秀秋)が隆景の養子となったために廃嫡、別家を創設

関ケ原の戦いでは京極高次が籠る大津城を兄の末次元康や立花宗茂らと共に攻め、落城させた。
しかし西軍が敗れたため大津城を撤退して大坂城に帰還

この時、国許でも戦が起こっており久留米城は黒田 如水鍋島直茂率いる三万7千の軍に攻撃を受けていた。
城中には500の兵しか残っていなかったが、数日間城は
持ちこたえた後、開城

関ヶ原の戦い後は改易
毛利輝元より長門国内に所領を与えられる。                   
小早川姓を捨てて毛利姓に復し剃髪し玄済道叱と称した。

帰国後は体調が悪化、長門の宮元二郎の館で療養したが、翌慶長六年(1601)に喀血し35歳の若さで病没。
遺体は当時の秀包の知行地で、館があったと伝えられる
現在の下関市豊北町滝部に安置されました。
後に久留米には秀包を祀る小早川神社が建てられた

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