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独りディナー
ヴォルフガング・「アマデウス」・モーツァルト
2016年03月16日
テーマ:音楽
昨日は、「アマデウス」に登場するモーツァルトの事をブログに書こうと思っていた。
何度も書き始めたのだが、でも文章が出てこない。
言いたいことは山ほどあるのに、それらはどれも、余りにも言い古された陳腐な内容で、自分でもばかばかしくなってしまうのだ。
それ程にもこの天才に関しては、諸々の人が賛辞を述べ、分析をし、調べあげては文章にしている、という事に他ならない。
そして行き着いたのが「アマデウス」という映画だったのかもしれない。
「モーツァルトは、自分の持てる才能と、人間としての自分自身との落差の重みに耐えきれず、あの様なバカ騒ぎをしたり、ばくちにはまり込んだりしたのではないか」
何処かで読んだ一文だけど、私には妙に納得のできる分析だった。
映画「アマデウス」の制作陣にもきっと、同じ思いがよぎったのではないだろうか。
モーツアルトがいかに稀有な天才だったかというエピソードは、神童と言われた幼少期から、35歳で亡くなる晩年まで、数え上げたらキリが無い。
それらのエピソードは、たとえその中の一例を取ってみても周りを驚愕させ得る程の、努力では決して到達できないタイプの天才性だけど。
だが、35年という短い生涯の間に600曲以上の作品を残したという事実も忘れることはできないながら、何といっても「彼の原稿には殆ど書き直しが無い」と言う点こそが、モーツァルトを「音楽史上稀有の天才」と誰もが認める所以である。
楽譜を書き始める時には、作品は既に完成していたのだ。
しかも彼の作品は、交響曲や歌劇、更にミサ曲等、壮大なスケールの作品が少なくないのだ。
そして、たった一人でも弾けるピアノ曲が、「モーツァルトの作品は、ピアニストにとって試金石である」と言われるほどに、技術的にも音楽的にも奥が深いのである。
もう、止めてくれ!
そう、私は大学の頃はそんな感じだった。
小林秀雄の批評文を読んだり、様々な書を読み漁り、モーツァルト弾きと言われるピアニストのレコードを聴いた。
音符をなぞってピアノで音を出すだけなら、小学生にでもできるレベルなだけに、真面目な学生には逆に手の届かない存在に思えたものだ。
それが、ウィーンに場を移すと、まずウィーンフィルのモーツアルト交響曲の演奏を聴いた。
なんと親しげで、楽しそうなんだ。
指揮をする80歳近いカール・ベームが、彼がかつて録音したレコードよりも早いテンポで演奏していた。
まあ、これはオーケストラの友達が教えてくれたのだけれど・・。
そこでは、モーツァルトが息づいていた。
モーツァルトの解釈だって・・?
まあ、やらせておくさ。
こんなに美しい音楽は、考える前にまず楽しもうよ。
ウィーンフィルと、ウィーンの聴衆達は、そう言っているかの様であった。
帰国してから、私は又重苦しい「モーツァルト考」には近寄りたくなくて今日まで来てしまったけれど。
でも、彼の生涯の倍近くを生きてきたシニアだもの。
そろそろ、モーツァルトと遊ぶ時期が到来した、と思ってもよいのかもしれない・・。
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さもありなむ
言いたいことは山ほどある。
そのために、逆に書けない。
ということは、往々にしてあります。
かの芭蕉だって
「松島や ああ松島や 松島や」
で絶句したと伝えられています。
(真偽のほどは定かでないですが、さもありなむという感じはあります)
対象が大き過ぎて描けない場合、結局は微視により、部分を描くよりありません。
そこに自らとの関わりを込めつつ……です。
「モーツァルトの解釈だって・・?まあ、やらせておくさ」
「こんなに美しい音楽は、考える前にまず楽しもうよ」
これで良いのだと思います。
2016/03/16 16:04:19