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2015年11月17日 外部ブログ記事
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 プラチナ・ギルド アワード公募を締め切りました!

 11/16日をもってアワードの公募を締め切りました。お蔭さまで今年も多くの方に応募頂きありがというございました。早速、アワード選考委員の皆様にお集まり頂き、第一回選考委員会(書面審査)が始まりました。今年の応募者はなかなか立派な方が多く選考が難しくなりそうと聞いております。

 同時に東京都から認定NPO法人の申請に関する現地調査が来年1/6日、終日事務所に来訪の上、実施されると連絡がありました。一部書類整備が遅れているところもありますので、それまでに整理整頓しておきたいと考えています。

 写真は一般社団法人日本賢人会議所の月曜セミナーの様子。昨日は15;00時から青山の学生会館(オーバルホール内)で定例の正副会長会議を開催、その後17;00時から月曜セミナーを開催。参加者は30名を超え、半分以上は会員以外の方の参加でした。講師、国武忠彦氏(注1)より、「古事記とは」、「古事記の魅力」、「天照大神の誕生」などについて分かり易く解説頂きました。

 その後、講演を受け、市川森一(注2)の妻女、女優の柴田美穂子さん(賢人会議所理事の一人)から市川・古事記の世界をドラマ化し「ドラマティック 古事記」を製作中との話がありました。来年9/3日((土))には、新国立劇場、オペラハウスで音楽劇として東京公演「ドラマティック コジキー神々の愛の物語ー」として公演が決まっているとのことです。大変興味深いセミナーでした。日々是好日

注1、公益社団法人国民文化研究会、機関誌より抜粋
講義
「源氏物語 もののあはれを知る」   昭和音楽大学名誉教授  國武忠彦先生
 冒頭、藤原正彦先生、岡潔先生お二人の数学者の「国語は全ての教科の基礎である」「数学の基礎は情緒である」との言葉に触れられ、豊かな感情を養ふ「もののあはれ」について一緒に考へていきたいと述べられた。ついで人の心・人情と題して本居宣長の言葉を引かれ、「古事記、万葉集の世界における本当の人の心とは善か悪かで割り切れるものではなく、分析的、知的に考察されるものではない」、「心の中に目を移し入れるやうに、外から眺めるだけでなく、内から見るやうに努めることで感じられ見えるものがある」、さらに「今学問において大事なことは、自分を捨てて共感すること、相手に飛び込むといふことなんです。源氏物語のもののあはれを知ることの意味はそこにある」と述べられた。
「儒教、仏教全盛の江戸時代に、人間の根本は未練で愚かな実の情であると宣長が宣言したことはすごいことだった」と説かれ、「その日本文学史上の功績は明治以降の西洋化と戦後のアメリカ一辺倒の時代にあってますます意義が深まってゐる」と指摘された。そして『源氏物語』柏木の巻を取り上げ、奥深く細やかな日本人の心の世界をお示しになり、「日本人が国語、古典を大事にしてきたことを、もののあはれとは何かといふことと共に考へて行って貰ひたい」と述べられた。

注2 市川森一 ウキペディアから転載
鎮西学院中学部、長崎県立諫早高等学校を経て日本大学藝術学部卒業。妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子。父は旧海軍大村航空隊の教官。
1966年(昭和41年)に円谷プロダクション製作の子供向け特撮番組『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家デビューする。その後しばらくの間は、子供番組を中心に執筆していた。
キリスト教の影響を多大に受けており、ウルトラシリーズの脚本では、新約聖書や神話に由来する名前を持つ怪獣や設定を多用したことでも知られる(ペテロ、バラバ、ゴルゴダの丘、アイスキュロス→アイロス星人、マナ→フルハシ・マナ、プロメテウス→プロテ星人、サロメ→サロメ星人など)。当初メインライターを務めた『ウルトラマンA』を最後に大人番組に軸足を移して脚本活動を行った。
1979年(昭和54年)、舞台『黄金の日日』の戯曲により大谷竹次郎賞受賞。1981年(昭和56年)、『港町純情シネマ』などにより芸術選奨新人賞受賞。1983年(昭和58年)、『淋しいのはお前だけじゃない』により第1回向田邦子賞受賞。1989年(平成元年)、『異人たちとの夏』により日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。同年、『明日 - 1945年8月8日・長崎』『もどり橋』『伝言』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年(平成11年)、『幽婚』によりモンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞受賞。2003年(平成15年)に紫綬褒章受章。
脚本家としての活動のみならず、ワイドショー番組にコメンテーターとして出演するなど幅広く活動している。なかでも長らく「日本アカデミー賞授賞式」のテレビ中継内では予想屋として出演。ことごとく外れる予想で知られた。
2003年(平成15年)からは、日本脚本アーカイブズの発足に尽力した。後に日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムとして実現した。
2011年(平成23年)には旭日小綬章を受章。その受章の際、内閣からの公式発表前にマスコミ各社が事前に行う記者取材が10月27日に予定されていたが、その日に急な発熱を起こして入院し、その際に受けた検査で肺がんが発見され、闘病生活に入っていたという[2]。
2011年(平成23年)12月10日、肺がんのため死去[1]。70歳没。戒名は祇承院弘庸森叡居士。死後に故郷・長崎への思いを込めた市川の遺稿が妻により発表された[2]。
死後、福地茂雄を理事長として一般財団法人市川森一脚本賞財団が設立され、新進脚本家を対象とした「市川森一脚本賞」が2013年より選定されている[3] 

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