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独りディナー
巡礼
2015年10月07日
テーマ:シニアライフ
須賀敦子のエッセイのどれかに、巡礼の事が書かれていたのだと思う。
強い信仰心があるわけでもないのに、何となく「巡礼」という言葉に魅かれていた。
実体のない性格であるが、足には自分なりに自信があったのだ。
札幌で通っていた中学では、夏休みが始まる前に「定山渓強歩」という行事があった。
その日だけは、夕方学校に集まって、体育館で魚寝状態になって仮眠をとる。
夜中の12時になると、生徒も先生も全員で学校を出発し、約25キロ離れている定山渓温泉まで歩くのだ。
国立大学の付属校で全校生徒が300人、という小ぶりの中学だったからこそできたのだろうと思う。
中学時代のその経験は、体育会系女子でもない私にとっては、かなり大きな自信につながった。
少しくらいの距離なら歩けるだろう、といつも思っていた。
大学生の頃、従妹と二人で諏訪湖のほとりに泊まった事がある。
女の子の一人旅は難しいという話から、叔母の提案で、二人で一緒に、それぞれの旅をしよう、というアイディアだった。
宿は一緒だけど、行動は別。
その時に私は、諏訪湖の周囲が約16キロと聞いて、一人で湖畔巡りをしたのだった。
朝の八時から、黙々と歩き始めて、お昼には出発点に戻ってきた。
湖畔沿いに道があるとも限らないし、一本道で男の人に出会いそうになると、横道にそれたりもしたので、距離は16キロをはるかに超えていただろうけれど、4時間程度で歩き終えた時には、更に歩く自信は強まった。
それ以降は距離を確かめて歩いたことはないけれど、旅行に出れば一人で、一歩一歩周囲を眺めながら歩く、というのが習慣になった。
四国のお遍路についても、やはり関心があった。
主婦のわたしには、規模が高遠過ぎる気がしたし、実行に移そうとまでは考え及ばなかったけれど、それだけに「風に吹かれて遍路道」という本が、手元に届いた時は嬉しかった。
「八十八ヶ所のお寺を巡る」
夢中になって読みながら、自分も共に旅をしている気分になってきた。
そして、読み進むうちに、この感覚はどこかで知っている、といったかすかな記憶が湧き起ってきたのだ。
たとえ困難な進路に出会っても、あるいは観光客で俗化していても、降っても照っても、順番通りに一歩一歩進んでいく、という行為。
いつしか、おこがましくも、難度の高い長大な曲を、自分のものにすべく、長期にわたって繰り返し勉強し続けている、日常の自分に置き換えていたものと思われる。
たとえ、自分の能力を超えるほどに超絶と思われる場所があったとしても、あるいは納得のいかない程通俗的な旋律が出現したとしても、すべての場所を乗り越えねば完成しえない、といった行為。
ピアノを弾くなんて、体を酷使して山を登り、炎天下を足を痛めながら歩き続けるお遍路さんとは、天と地程も辛さが違うだろう、と客観的に思ったりは、勿論するのだが・・。
でも、先ほど読み終えた読後感としては、やはりある意味、ビフォー・アフター的な、精神の体験と言う意味合いの、共通点が多々あるのではないか、と思うのだ。
それは私が常々、芸術は宗教の一つである、と考える所以でもある。
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団塊の世代は、面白いですよね
彩さん、コメントありがとうございます。
団塊の世代は、受けた教育のタイミングが良かったのかも知れませんが、全般的に自由な考え方の人が多いですね。
色々な流行を取り入れるのも、メディアに踊らされるばかりではないという気がします。
積極的ですよね。
その世代の中に居ながら、私は幸か不幸か独特な世界の中で生きてきた為、ちょっと外れた価値観を持っているところがあります。
極端にリベラルで、保守的アレルギーだし、男女同権問題には神経質です。
只、狭い世界に生きているお蔭で、その道を究めたいという人々には多く出会ってきました。
そして、その結果、これも宗教の一つかもしれない、と考える様にもなりました。
いまは、ブログを書いたり読んだりしているお蔭で、自分の考え方がまとまってくるのみならず、色々な方のコメントを軸にして考え方が展開していく楽しみを味わっています。
2015/10/10 11:28:30
やはり独特の感性
シシーさん、おはようございます。
私たちいつしか団塊世代と名付けられ、
あんなに多くの同年齢者達と一括りにされ
育ちましたね。
その中でも、自然と個性を出そうと考えたり
大人数で育ちあうその意味、意義とか、色々考え
生きて来た気がします。
はみ出さずとも、はみ出しつつ、チャンとわきまえる点は
わきまえて生きてきたのが、あの時代の私たち世代の
一塊の育ち方、生き方だった気がします。
その中でも、シシーさんは独特な育ち方
(自由かつ裕福に)をされ、今に至って
おられるのだなぁと、納得しました。
そこから生み出される感性というものは
おのずと違うのだなぁと、感心します。
最後に書かれている一行
>芸術は宗教の一つである、と考える所以でもある。
これに、大きくうなずいてしまいました。
2015/10/10 04:43:11
ご褒美です
パトラッシュ師匠、長いコメントありがとうございました。
師匠と出会えたことは、このシニアナビに参加したご褒美だと思っています。
自分の中で、漠然と考えていることが、師匠が書いて下さるコメントや、ホームページを読んで、見事に整理される、という事がよくあります。
ホームページに出てきた、大原美術館で印象に残った作品が、グレコとモジリアーニだったという、好みの共通項も、ちょっと嬉しい発見でした。
「閑居堂」も、師匠のお話を伺う様な気分で、ゆったりと読んでいます。
2015/10/09 10:35:42
絶対的なもの
Reiさん、コメントありがとうございました。
Reiさんの世界こそ、巡礼に似ているのではないでしょうか。
考えてみると、巡礼は人生の苦楽の縮図、とも言える気がしてきました。
それを、宗教と捉えるかどうか、それぞれの考え方でしょうね。
私は、芸術を極めることができれば、其処に何か「絶対的なもの」があるのでは、と何処かで信じています。
2015/10/09 10:24:42
続き
もし、読者の人生と、ほんのかすかにでも、
関わりを持てたら、それはもう、
作者名利に尽きるくらいに、うれしいです。
その一人のためだけにでも、出版をしてよかったと、こう思わされます。
さながら演奏者が、会場にたった一人の客のためだけにでも、
演奏して惜しくないようにです。
すみません。
音楽のことを、まったく分からない私が、したり顔に、
比喩を濫発しております。
2015/10/08 12:35:05
昔こんな短歌がありました
隣家より 流るるピアノも 終章に 入りて窓辺に
たそがれは来ぬ (石橋美紀子)
奏者はきっと、無心に弾いていたのでしょうね。
しかし、意外なところに、それに耳を傾ける者があり、
後に感動したことを告げられる。
奏者は、照れ臭くもあり、嬉しくもあり・・・
本の出版にも、似たようなところがあります。
元々は、自分のために、体験を本の形に整えたのでした。
(それが全てとは言いません。実は野心もあるのですが)
ところが、出版の余波は、時に意外なところから、顕れます。
手紙であったり、メールであったりして。
著者としては、お読みになった読者が、黙って頷いて下されば、それで十分です。
褒辞は要りません。
それが何でもいい、得たものがあったと、
こうおっしゃって下されば、さらに喜ばしいです。
(字数の関係で次へ)
2015/10/08 12:33:41
共通するもの
どんな分野でも、一つ一つの地道な努力を積み重ねて、一つのことを成し遂げる作業は、共通するものがあるのでしょうね。
よくわかります。
気の遠くなるような作業・・・時にはやりたくないような、投げ出したくなるようなことにも遭遇します。
それでも、やめずにやり続ければ、いつかはたどり着くだろうと、ひたすら歩みを進めていきます。
巡礼とピアノを結び付けつけられたシシーさん。
私も何か似たものを感じますので、私のやっている手芸も宗教の一つに入るのでしょうか・・・。
2015/10/08 08:40:48