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雑感日記

昭和39年、(1964)日本も自分も変わったー? 

2010年12月23日 外部ブログ記事
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★昭和39年、この年の秋、10月10日が東京オリンピックの開会式である。
夏7月25日に、新幹線が初めて東京ー大阪間を試走してオリンピックと同時に開業した。
東京都内の高速道路も出来て、私自身も初めて、飛行機に乗り、新幹線にも乗ったし、助手席ではあったが初めて名神高速道路を走ったりした。
給料は25000円ほど、ボーナスは6万から7万円年収は50万円には届かなかったのである。
結婚生活実質2年目、前年長男が生まれこの年の秋、二人目の妊娠が解った。 32歳である。
 
★そんな社会環境の中で、会社生活も8年目を迎えて、ようやく中堅社員にはなりつつあったのだが、こちらの方は日本の変わりようの何倍もの変わり方だったのである。
前年度にカワサキの単車事業についての日本能率協会の調査があって、その結論は幾つかの条件付きでGOサインが出たのである。
そのひとつが、広告宣伝部門を創ること、その予算は事業部では負担できない規模なので本社の開発費扱いとなり、その額1億2000万円が決まったのである。
その広告宣伝部門を担当することになった。
その後もずっとお世話になった故苧野販売促進部長のもとで、課長も掛長もなくそれはすべて苧野さんが兼務で、任されたのである。
50年近くサラリーマン生活をしたが、これくらい自由に大きな金を使ったのは何と言ってもこの年である。
と偉そうに言ってはいるが、結局は7000万円ほどしか使い切れずに、本社の専務に『君らは金をやってもよう使わん』と怒られたのである。
 
★それまでは、販売会社のカワサキ自販が広告宣伝を担当していて、
小野田滋郎さんが課長をしておられたのだが、その業務を10倍以上の規模で川崎航空機が引き継ぐことになったのである。
まず広告代理店の選定作業からスタートした。これは小野田さんがその骨子を造ってくれたが、それはまたユニークで、今でも傑作であったと思っている。
1億円以上の広告宣伝費があると知って、電通、博報堂、大広など広告代理店がその本社企画部門を引き連れて大挙やってきた。
それぞれのプレゼンテーションに任せたら、素人はやられてしまうと、こちらから10ほどの設問を出しそれに答えてもらう方式とした。
そしてその10問目は『貴社の特徴など、貴社のウリを1枚の広告に纏めてみて下さい』というものだったのである。
 
後になって各広告代理店から、『こんなプレゼンテーションは、初めてで弱った』と高い評価を頂いたのである。
われわれが下した評価は、本社企画部門のスタッフが大挙して企画立案した『大広』が圧倒的によかったのだが、
本社のトップ筋から、コネによる小さな代理店を推薦されて、1年間はそこと付き合わざるを得なかったのである。まあよくある話で、どうも納得できずに、そのことも予算を使えなかった原因の一つだと思っている。
 
★3月まで、文字通り一緒にやってきた小野田滋郎さんだが、3月末をもって自ら身を引かれたのである。
その送別会の時に言われた言葉、『毀誉褒貶は忘れろ、雑音に耳を貸すな』は
小野田さんが私にくれた言葉である。 今でもちゃんと覚えている。
この年に出会った、大広の加藤純三さんも忘れられない人である。私より歳は若かったが、いろんなことを加藤さんから学んだ。
このお二人は、その後の私の生き方に大きな影響を与えたと言うか、ずっと離れてはいたけれど、ずっと一緒にいたような人である。
 
★マーケッテングという当時では、まったく新しい考え方の分野が新鮮であった。
コストから積み上げるモノづくりのメーカーの発想などとは、全く異なる『及ぼす効果の量』を基準にカネが計算されるのである。
予算はいっぱいあったので、『カワサキ』というロゴも有名人に頼みましょうかということになって、
『オリンピックのポスターを創った亀倉雄策さんに』 と仰るものだから、『そうしましょう』と見積概算を見たら7000万円と言われてビックリ仰天したものである。
カワサキという4文字の製作費ではなくて、『カワサキ』というロゴは、今後の広告の全てに使われるから高価なのである。
社名の新しいロゴなどの変更は、ほとんどが1億円ほど掛っているのではなかろうか。
確かに、スターにモデルを頼んだりしても、1日幾らではなく、それを何に使うのかによって値段が違う世界なのである。
そんな発想が面白かったし、広告業界の人たちの仕事のやり方、そのスピードも魅力であった。私の仕事のスピードは当時身に付いたものである。
カワサキオートバイニュースの発行や、広報月報なども、その時代ではトップのレベルで情報発信して、それが体質になったのだと思う。
今のブログやツイッターなどに望む態度なども、この年覚えたことがそのまま続いているように思うのである。
 
★昨日のあさ、電話した二輪車新聞の衛藤さん(モーターマガジン、オートバイ誌)ともこの年前後からのお付き合いである。
それが今も続いていて、来年に予定されているNPOのイベントなどの予告連絡をしたのだが、このような記者さんとのお付き合いや、業界誌紙なども新鮮であった。
この年のことだが、輸出月報を作ってカウンターに並べてホッチキスで止めようとしていたのだが、いつの間にか一式、衛藤さんが持って帰って記事にしてしまって、苧野さんに怒られたことがある。
衛藤さん曰く、新聞記者が入ってきたら、見せてはいけないものは隠して下さい。置いてあるものは『どうぞ見てください』ということなのです。と言われて、なるほどそんなものかと思った。
 
★昭和39年はそんな年だったのである。
お金もあったから、いろんなイベントもレースも結構派手にやったし、いろいろあったそんな具体的な話は次回に。
 
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