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ひげじぃ
No.28 ひげじぃ (hige-eiei) の自分史
2010年12月09日
テーマ:テーマ無し
ひげじぃの自分史より
父が海軍のため、六歳まで呉市で育ち、第二世界大戦終戦を迎えた八月に父は戦死、母は戦争未亡人となり、三歳の弟と、母のお腹には、妹を宿していたのだ。
終戦の翌年(昭和二一年)四月、呉の小学校に「ピカピカの一年生」と言いたいが、「ボロボロの一年生」が下駄や、わら草履を履いての通学だった。
母曰く、「お前の服は、ちゃんとツギが当たっているだろう。 ツギが当たっているともっと丈夫だからね!」と、母の言い分だが、ツギが当たってないのがボロなのだ。
当時は、着るものは無かったし、近所のみんなが「お古ですが・・・」と回し合い、助け合っていた。 また、周囲もみんながボロボロでも助け合っていたことを思い出す。
それも、蚤やシラミつきで、「かゆい!」と云うと、誰々さんの「お兄ちゃんの血も吸っているから、お前もいい子よ! よかったね!」更に「兄弟になれて、よかったね!」と。
勿論、食べ物も、着るものも、何も無かった終戦時は、何時間も食糧配給の長い列にお腹を空かし、数時間待つしかなかったのだ。
幸い、戦火から免れた我が家の高台から見た景色は、一面が焼け野ヶ原で瓦礫の山、その光景は六十年経った今も目に焼き付いていて、戦争の悲惨さは決して消えないのだ。
神戸の震災のとき、その悪夢は鮮やかに甦ったのだ。
食べるものも無い悲惨さ、それでも手に入れた食べ物は,近所の人と分かち合いながら、命をつなぎ合った記憶も消えてない。
大変な時代だったが心は豊だったと思うし、決して貧しいとは思わなかったのである。
そんな時代を生き抜いた自分には、今の世の中が本当に良くなったのか疑問に思っている。
「・・・・・などと、言っていると「年寄り」とみんなに馬鹿にされそうだが・・・・・」
ひげひぃ
関西国際大学 シニア関学生のページ はここをみてね
http://www.kuins.ac.jp/kuinsHP/student/senior/sstop.html
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