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勝っても負けても 心は傷つく___東京大空襲から70年 

2015年03月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨日、東京大空襲の日の前夜、2時間も、恐ろしいテレビを見ていました。
当時の戦闘機による機銃掃射の実際の映像です。



私はB29の空襲を毎晩のように見ていましたが、目黒では、機銃掃射をする戦闘機を見たのは一度だけでした。
自分の居た道は狙われなかったのに、それはそれは恐ろしい音でした。

それらの戦闘機には,カメラがついて居て、戦果の確認をして居たそうです。

70年たってその映像を入手、何処の町か村か確認して居る方達がありました。
地形、写り込んで居る山の形などから、現場を確認する難しい作業です。

それは主に沿岸部の町村で、全国に及んで居ました。
特に九州南部は、上陸作戦に備えて激しい攻撃を受けました。

低空からの機銃掃射は、コンクリートも貫通する威力。機銃ですから弾丸の数量は物凄く、真っ直ぐに撃ちまくって飛び過ぎる凄まじさ。密集した木造の家々はたちまち破壊され、並んだ漁船が全部穴だらけにされてゆく。実に恐ろしい光景でした。昭和20年の実際の映像ですから、背筋がゾクゾクする恐ろしさでした。


後半は、八王子のトンネル前であった列車への機銃掃射の再現ドラマ。

東京に女学校3年と1年の姉妹がありました。
小学生は疎開させられましたが、女学生(今の中学生)は、軍需工場で働かされて居ました。

姉妹の父親は軍事工場で働いて居るので、疎開はできません。
昭和20年8月に入り、娘たちだけで、信州の祖母の所に疎開させることにしました。
両親が別々に早朝から駅に行列してやっと手に入れた2枚の切符で、不通から復旧したばかりの中央本線に乗り込んだのが8月5日。

列車は八王子のトンネルに入りかけた所で、機銃掃射を受け、多くの乗客が死にました。
姉妹の姉も死んだのです。終戦のわずか10日前に。


妹さんは、大田区にある当時の家に今も住んで居て、毎年8月5日、八王子のトンネル脇で執り行われる慰霊祭に参列しているそうです。
「あの時、機銃掃射をした人に会ったらなんと言うでしょう」と聞かれて、妹さんは「勝っても負けても、辛いことが色々有ったでしょうね」と言われました。

番組はアメリカに行って、あの日硫黄島から出撃したパイロットたちを探し当てました。あの列車を撃った人では無かったが、一人が言いました。「人の顔が見えなければ、容赦無く撃てるものだ」
映像に人の姿はほとんど写って居ません。列車には民間人がぎっしり乗っているけれど、飛行機からは姿が見えないのです。

あの列車を襲った部隊の、一人の方が、硫黄島から妻に沢山の手紙を送って居ました。娘が生まれたばかりだったので、妻子のことを心配し続けて居ました。
日本の軍隊なら、検閲で真っ黒に消されてしまう内容ですが、ちゃんと妻に届き、彼の苦悩がわかります。民間人は撃てない、子供達は撃てないと言う部分がありました。
彼は無事帰還し、近年まで生存しておられたそうです。息子さんが、硫黄島からの手紙を保存していました。

勝っても負けても、戦闘に参加した兵士たちは、生涯重苦しい思いを抱き続けるようです。


昨夜の番組は、戦闘機からの機銃掃射とロケット砲の映像でした。

B29による爆撃の被害は、そんなものじゃあありません。
70年前の今朝、東京の下町は黒焦げの遺体が重なり合っている地獄でした。
一晩で10万人も死んだのでは、身元もわからないまま葬られた人がどれほど有ったでしょうか。
家族の骨を拾えなかった遺族、親を失った多くの孤児たち、十万人分の悲劇が一夜にして生まれたのです。

戦争は、どう考えたって「悪」です。


70年前、この川には夥しい遺体が流れ、橋のたもとに大きな穴を掘って、あたりの遺体を仮に埋葬しなければならなかった、戦争の本当の姿を、この子達にしっかり話しておかなければならないと思います。









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