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入船山記念館・旧海軍鎮守府司令長官官舎 

2015年03月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


旧海軍鎮守府司令長官官舎



今から約千三百年昔、古代飛鳥時代の大宝三年
(703)に呉浦(くれうら)の総氏神(そううじがみ)である亀山神社(かめやまじんじゃ)の鎮座地と定められたといういわれのあるところです。

芸藩通志では
「八幡宮、宮原村亀山にあり、山、初は入船山(いりふねやま)と称す」と記されています。



八幡宮の鎮座で「亀山(かめやま)」「八幡山(はちまんやま)」と呼ばれ,明治の海軍鎮守府司令長官官舎設置で「長官山(ちょうかんやま)」となり戦後再び「入船山(いりふねやま)」と呼ばれるようになりました。

明治十九年(1886)、呉への鎮守府の設置が決定し,建設工事が開始されました。

明治二十二年(1889)7月1日呉鎮守府が開庁。
亀山神社は清水通りに遷宮


跡地には,洋風木造2階建ての「軍政会議所兼水交社」が建てられ,明治天皇行幸時には行在所(あんざいしょ)となり、明治二十五年(1892)からは
「呉鎮守府司令長官官舎」として利用されました。

日露戦争直後の明治三十八年(1905)6月2日午後2時39分に発生した芸予地震によって大きな被害を受け、同年建替えられたのが現在の司令長官官舎です。

設計は,桜井 小太郎(1870〜1953)
イギリスで建築学を学んだのち呉鎮守府建築科長となった桜井は,イギリス様式(ハーフティンバー様式)を備えた長官官舎を設計しました。



前面(東側)を洋風に、後方(西側)を和風にした
和洋折衷様式で洋館側は公的接客用、和館部は私的生活用と機能が分けられました。
         


         

 
昭和二十年(1945)太平洋戦争終結後、
呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり呉鎮守府司令長官官舎は占領軍の司令長官官舎として使われました。

この間に建物の内外とも白ペンキが塗られ、床にはリノリウムが貼られたほか、新たに通路や扉が加えられるなど様々な改造が加えられ、昔の面影はなくなっていました。貴重な金唐紙が台無し

「入船山」が日本政府に返還されたのは昭和三十一年(1956)年のことでした。

昭和四十一年(1966)「入船山」は大蔵省から呉市へ譲与され,市史跡に指定。
翌四十二年4月1日呉市入船山記念館としてオープンしました。
昭和四十三年には貴重な明治の洋風建築物として広島県重要文化財に指定されました。


平成三年から七年(1991〜1995)にかけて調査、
解体、修復を行い明治三十八年(1905)当時の
姿を復元しています。


         
        歴史民俗資料館
   金唐紙再生の様子が展示されています
   資料館周辺は旧軍関係の施設らしきものが
   ありますが立ち入り禁止のようです。


平成三年(1991)にこの建物の復元作業を開始して初めて金唐紙が使われていることが判明し、建築当初の姿に戻すために金唐紙を新たに製造することになりました。
今見ることができる壁紙はそのときに作られたものです。
 
          


金唐紙(きんからかみ)とは、もともとはヨーロッパで壁の内装に用いられた金唐革(きんからかわ)の技法を 和紙で再現した物です。擬革紙とも呼びます。金唐紙は金属箔を貼った手すき和紙に,文様を彫った版木棒を重ね凹凸をつけ,彩色した皮に見える豪華な、最高級壁紙です。
箔の上に塗る塗料次第で、金色にも落ち着いた色合いにもなります。金唐紙は、明治の頃には欧米で、高い評価を得、輸出も盛んに行われました。オランダのヘットロー宮殿には日本製金唐紙張りの部屋が現存しています。しかし昭和の声を聞く頃には、衰退し失われた工芸と成りました。




          資料館内
    金唐紙復元の苦労がよくわかります





           版木
和紙に金属泊を張り版木にのせて中国産の黒豚のん刷毛で丹念にたたき出しそれを乾燥させて漆と顔料を混ぜた物で彩色する


 
           
復元金唐紙


和館の炊事場が入口となっています

                       
  
          洋館部            
              
和館と洋館を繋ぐ廊下 腰板に金唐紙


建築当初(明治38)の姿に復元された長官官舎の洋館部壁紙に使われている金唐紙は、日本に数ヶ所しか  

現存しない大変貴重なものです
 

       洋館ホールの大和模型








美しく復元された金唐紙
70年前これに白ペンキを塗られた。


             食堂

食堂出口から





              和館部 
表八畳


廊下

  
  
        奥十畳 畳廊下が見える



         

    奥十畳前の縁側から庭を眺める
     大きな宝筐印塔が見えます。


    
宝筐印塔を見に行く


清盛塚と同型・同年代の宝篋印塔の上部だけがあります。
清盛塚と同じ元歴(1184)となると830年前のものになります。     



宝筐印塔前から和館



庭をうろつく


おっと狛か?



  
         狛犬です。尾道顔


          この位置にいました。





          洋館南側


           軍水道防火栓






            海軍水道


           水蓄式油槽鉄蓋
呉市広町虹村の旧海軍燃料タンク基地にあった水蓄式油槽の鉄蓋です。
従来の地上タンクでは、保安防備上での問題点が多くありましたが、約40mの粘土層であったこと、また地下水位が適当であったことから水蓄式油槽の方式が採用され、大正15年(1926年)から昭和17年(1942年)にかけて約120基(1基の容量は5,000〜10,000トン)が建設されました。



 
             洋館正面


なかなか見所満載でした・



                       

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