メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

アフガニスタン紛争と同様のウクライナ 

2015年02月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



アフガニスタン紛争 (1978年から10年間)

ソ連の侵攻に対する抵抗運動の中心となったのはムジャーヒディーンです
戦力&損害
*ソ連軍     ⇒軍隊115,000人、戦死他14.000人
*アフガニスタン軍⇒軍隊 55,000人、戦死他18,000人
アフガニスタンとウクライナ結局全く同様の、米ソの代理戦争になりますね


人口3千万人(首都カブール)










アフガニスタン(ネットより引用)

アフガニスタン紛争
アフガニスタンの人民民主党政権に対するムジャーヒディーンの蜂起
全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請
要請に応じて、ソ連軍軍事介入し、撤退するまでの10年間です
アフガニスタンの反政府組織とソ連軍の間で発生した戦闘です

アフガニスタン人民民主党政権への反発
アフガニスタンは王国で国王として統治していました
ダーウードは、革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させました
ダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺されました

ソ連軍に対して、ムジャーヒディーン中心の抵抗運動
米国中央情報局は、極秘の武器供給等、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドル提供
ムジャーヒディーンの抵抗運動には、イスラム諸国からの義勇兵も含まれていました
アメリカ同時多発テロ実施の、ウサーマ・ビン=ラーディンも加わった一人です
この戦争により、イスラム原理主義テロリストの活動が活発になりました
ソ連撤退後も、ムジャーヒディーン派の内部抗争、タリバンの台頭&タリバンと米国との戦い
アフガニスタンでは、現在でも、米国・イスラム共和国政府との戦闘など戦火は続いています

人民民主党に対する反乱勃発と拡大
人民民主党は、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次ぎました
反乱は全国に拡大し、ソ連の援助がなければ政権が崩壊する状況でした
アメリカの外交政策も転換し、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定されました
アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があります

ソビエト連邦軍の人民軍支援の戦略
ソ連軍は、総勢でおよそ18万人になりました(師団のほぼ20%)
前線では、化学兵器・対人地雷(人形爆弾)が使われました
戦闘ヘリコプターを多数投入し、航空戦力を持たないムジャーヒディーンにとって大きな脅威になりました
アメリカがムジャーヒディーンにスティンガーミサイルを供与したため脅威は限定的となりました
中東におけるソ連の影響力を怖れたアメリカは、ムジャーヒディーンの支援に乗り出しました

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ