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大頭神社 廿日市市大野 

2015年02月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

   大頭神社入口前にひっそりと佇む碑


幕末期の長州戦争では大野地区が戦場となり、滝の下では激戦となって長州軍、幕府軍の多くの兵士が戦死しました。



この千人塚はこの戦いで戦死した無名戦士を敵味方共に葬ったものです。

四基の墓は紀州藩の武士の墓と云われます。
表面は読み取れませんが墓裏面には慶應二年丑寅六月十九日と刻されています。

大頭神社入口






報国神社(英霊四百六十四神)




右から二番目の忠魂碑は
残念さんの依田伴蔵の長男、依田廣太郎の揮毫


依田廣太郎
陸軍兵学寮にはいり、西南戦争に出征      
フランスに留学から帰国後歩兵第29連隊長
陸軍戸山学校長、歩兵第47連隊長を歴任。
 
明治36年歩兵第4旅団長となり日露戦争を戦う。

戦後、歩兵第12旅団長、歩兵第4旅団長を務め  明治43年に中将に進み第11師団長となった。


砲弾碑








報国社 拝殿 本殿



伝  承
『芸藩通志』によると大頭神社の末社である中山大歳社(椎宮神社)塩屋山祇社(太田神社)奥谷尻河内社(原神社)、
三鎗谷三鎗社(三鎗神社)は大頭分身の神と伝えられている。


『日本書紀』一書によると伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐづち)を斬り給う時その首が大祇命、身中が中山祇命(椎宮神社)、手が麓山祇命(三鎗社)、
腰が正勝山祇命(原神社)、腹が奥山祇(原神社)と化したといい、首、即ち頭より成った大山祇を祀るため当神社を大頭神社と称し、また四末社は他の部分より成った神を祀るための
分身と伝えられる

別鵜橋
                     




由  緒
                            嚴島神社の摂社として推古天皇十一年(六〇三)に創祀された    
古くは嚴島兼帯七社の一とされた。     
もと郷桑原に鎮座したが、大正二年に現在地に遷座した。


楽音寺蔵「安芸国神明帳」に佐西郡二位五前として大頭明神とある古社である。 

 正安二年(一三〇〇)「伊都岐島社未造殿舎造営料言上状」に「大頭社一宇三間一面、同戎殿一間一面、同拝殿一間一面、庁屋五間一面、御供屋三間、鳥居一基」と記されており、鎌倉時代には既に多くの社殿が建ち並んでいたことが知られる。また、平清盛の頃より毎年米五十三石余りを奉納されていたと伝え、毛利元就公の時に二十三石、福島正則公の時に十六石、
江戸時代に至るも十二石の社領米を有していた。
寛永十四年(一六三七)再建の棟札を蔵す。
                 大頭神社HPより
拝殿
幣殿、拝殿は木造重層建築。木造重層建築の神社は、富士の浅間大社とともに他に例のない建築様式
迫力の狛犬が睨む








本殿
三間社流造、檜皮葺(間口四間、奥行三間)
昭和五十六年再建









妹背(いもせ)の滝(雌滝)と阿形
阿形の台座は昭和三二年再建


吽形

吽      阿
            

          














吽形と木鼻


 
 
 









        

吽 尻尾
ひねってます



文政九年(1826)



境内



境内の狛犬
































昭和八年奉納






































         
 


          妹背の滝





雌滝 高さ50M



         
    本殿横を通り雄滝を見に行く
 



        妹背の滝(雄滝)






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久々に訪れましたが良い神社です。
山陽自動車道 大野インター降りてすぐです

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