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残念さんと吉田松陰腰掛けの岩 廿日市市 

2015年02月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

    
  
  残念さんと吉田松陰腰掛けの岩
      



山裾を通る山陽自動車道路のやや上に西国街道がありました。
明治までこのあたりの主道でした。




石畳の道付近から宮島を見る


古代山陽道は、四十八坂と呼ばれるこの付近を通り
鳴川を通過し大竹市に続いています。
山道の一部は雑木等が茂り道の不明なところもあります。
この奥には地図に示すように、往時の旅人がわらじで踏み歩んだであろう「石橋」や「石畳」があります。
また、この坂道を西に行った見張らしのよいところに、室町時代の将軍足利義満から九州探題に任じられた今川貞世(了俊)が九州に赴く途中に詠んだ歌
を刻んだ歌碑があります。


    
    石畳入口
平成三年(1991)草に埋もれて残っていた石畳道を発掘調査したら、ほぼ完璧な状態で現れました。
約100mの調査を実施し現在は一部を残し仮舗装
されています。


  石橋と石畳 これでほぼ全部


約50mの石畳道がモニュメントとして残されています


  石畳は登ったところで寸断されています。


 
 
この舗装路の下に石畳の道が残されています



残念さんに至る道から


残念社 案内板


 
なかなかの風情の道ですが・・


山陽道(高速)の上に出ます


山陽道から見える残念さんの看板





 


         西国街道
明治まで西国街道が主道として山間部を通っており、別に海岸に沿った幅の狭い路が存在しました。
難所と云われた四十八坂。大小四十八の坂が3kmにわたって続くと云われます。

西方

 






鳥居をくぐり登ったところに依田伴蔵を祀った
依田神社があります。



先ずは残念さんへ ということで坂を下ります

結構キツイ坂
第二次長州戦争の時、この四十八坂一帯は幕府軍と長州軍との激戦が繰り返された地でした。

四十八坂の古戦場と残念社
慶応二年(1866)7月9日、四十八坂を単騎、西に向う幕府軍の武士がいました。



これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いをして、
狙撃しました。
その武士は「残念」といって倒れました。


後にこの武士は、丹後宮津藩士の依田伴蔵で使者
 として長州軍営に赴く途中であったことが分かり
長州軍は遺憾の意を表しました。   
     
残念社は死んだ伴蔵を悼み土地の人々が祠を建てて祀ったものです。
 
          残念社
                             
 
  











 
 

尼崎市にも残念さんがあり、尼崎はこことは逆に
長州藩士が幕府に捕らえられ自決し残念と叫んだと云われます
長州藩士山本文之助は元治元年(1864)の蛤御門の変のとき、京都から帰国の途中で捕らえられ自決しました。
死に際に「残念、残念」と叫んだと言うので、幕府に反感を持つ民衆の同情を受け墓参りの人が絶えず残念さんと呼ばれるようになりました
         


          砂防ダム


再び坂を上がる




  
        依田神社 入口鳥居 
    鳥居奥の岩が吉田松陰腰掛けの岩


安政元年(1854)ペリー来航の時、密航を企てて捕まり、萩に護送される途中、四十八坂で次のような詩を詠んでいます。

四十また八坂 升降(のぼりくだり) 
人馬艱(くる)しむ
輿窓(こしのまど)、時に獨(ひと)り笑う
見得たり周防(すおう)の山。
 


  腰掛けの岩 看板  依田神社は撤去中
樹木が茂り現在は腰掛け岩からの展望はありません



    ここから登っていくと依田神社へ着きます

      依田神社(撤去中)







ここより東方への展望が望めます
樹木が無かったら三県一望(広島、山口、愛媛)の地です。

       腰掛け岩で休む

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