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2015年01月30日 外部ブログ記事
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江戸の文化人勝海舟

勝海舟 ⇒武士(幕臣)、政治家、「幕末の三舟(山岡鉄舟、高橋泥舟)」














勝海舟(ネットより引用)

勝海舟修行時代
剣術は、実父の本家島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる
蘭学も学び、蘭学者佐久間象山の知遇を得て、西洋兵学を修め、私塾(蘭学と兵法学)を開いた
老中阿部正弘は、ベリー艦隊の対応で、海防の意見書を幕臣・諸大名・町人に至るまで広く募集
勝も海防意見書を提出し、勝の意見書は、阿部正弘の目にとまり、念願の役入りを果たした
長崎海軍伝習所に入門し、この時期に薩摩藩主島津斉彬の知遇も得ました

勝海舟渡米と神戸海軍時代
幕府は、日米修好通商条約で、遣米使節を米国へ派遣し、護衛艦咸臨丸もアメリカに派遣した
咸臨丸にはには、軍艦奉行他、勝、通訳のジョン万次郎、福澤諭吉も乗り込んだ
帰国後、幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任
勝は、神戸港を日本の中枢港湾にすべしとの提案し、将軍・徳川家茂を案内している
勝は神戸に海軍塾を作り、神戸海軍操練所も設立している
西郷隆盛と初めて会ったのは、神戸時代で、西郷は神戸港開港延期を危惧していた

勝海舟、駿府城会談・江戸城無血開城時代
官軍の東征が始まると、幕府の陸軍総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う
官軍が駿府城にまで迫ると、勝は、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる
山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた
江戸城総攻撃の直前には、勝は西郷と会談、江戸城開城と徳川宗家の今後などについての交渉を行う
会談の結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた
会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった

勝海舟明治期
勝は、旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された
徳川慶喜とは、意見が対立し存在を疎まれていたが、勝は、慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した
努力が実り、慶喜は公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許された
西南の役で逆賊の臣となった西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している

勝海舟の晩年は
赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『海軍歴史』他、多くの本のの執筆・口述・編纂に当たる
独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった
晩年は、子供たちの不幸に悩み続け、その上、孫の非行にも見舞われ、孤独な生活でした

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