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タツー『桜吹雪』を彫った有名な公務員! 

2015年01月27日 外部ブログ記事
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江戸時代の文化人遠山景元

遠山景元 ⇒旗本、江戸北町奉行、大目付、南町奉行、通称は金四郎










遠山景元(ネットより引用)


遠山景元生誕
遠山景元の実家の知行500石、堀田家の知行4000石、堀田家の娘と結婚
堀田家と遠山家とは釣り合いが取れないが、堀田家が景元の将来性を見込みました
遠山景行、作事奉行、勘定奉行(公事方)北町奉行へと出世

遠山景元の北町奉行時代
天保の改革では、町人達を奉行所に呼び出し、贅沢と奢侈の禁止を命令していた
景元は、町人の生活と利益を脅かす法令の実施には反対し、老中水野や目付の鳥居と対立
景元は、禁止令の緩和を求めたが、景元の意見は採用されず、贅沢取締りの法令が出させた
水野が芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転を止めた
景元に感謝した関係者が、景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演した
鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げました

遠山景元の南町奉行時代
水野の弟の後任で南町奉行となり、同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは異例です
南町奉行在任中は、株仲間の再興に尽力、床見世の存続を幕府に願い出て実現させた
63歳で死去、墓所は豊島区巣鴨の本妙寺

「遠山の金さん」諸説
景元は、青年期の放蕩時代に、彫り物を入れていました
有名な彫り物「桜吹雪」は、奉行として入れ墨は論外なので、肘まであった彫り物で、それを隠していました
景元の死後、講談・歌舞伎で、基本的な物語のパターンが完成し、「遠山の金さんシリーズ」で普及しました

北町、南町奉行が裁いたのか?
江戸時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅した役職でした
現在の裁判官を行うのは、町奉行の役割の一部、歪曲化された面が多々有ります
「能吏中の能吏」としての名声は、講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承されました

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