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丸屋城跡 下蒲刈島 

2015年01月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

       
                安芸灘大橋
     通行料普通車片道720円もします。
         バイクは560円
  安芸灘大橋の現金での利用者を対象に、安芸灘とびしま海道エリア内にある指定施設で合計1,000円以上ご利用すると、安芸灘大橋の回数通行券と交換できます。
 
 千円使ったら帰りが只になります。

下蒲刈島〜上蒲刈島〜豊島〜大崎下島〜岡村島まで橋で繋がっています。 
ゆくゆくは大三島まで繋がるようです。

    モニュメント「生 土 火 知 空 水」



2本の塔は、男性と女性で、生命が強く空に向かって伸びていく様子を表しており、底盤は、大地、波(突起)春蘭などを表しています。
 全部で約3500枚の手作りの陶板を張り付けたもので、下蒲刈町の赤土、みかんの木を灰にし作った釉薬、そして昔から交流のあった中国大陸の土などが使用されています。
(今井眞正氏制作)

 
丸屋城跡
築城年代は定かではないが多賀谷景茂によって築かれたと云われます。                        
蒲刈多賀谷氏は関東の千葉氏一族で、観応2年・正平6年(1351)に伊予国周桑郡北条郷の地頭であった多賀谷氏が、下蒲刈島にきて築城したのが始まりと云われます。               
同族に倉橋島の丸子山城を拠点とした倉橋多賀谷氏がいる。              
多賀谷宮内少輔武重は水軍衆を率いて大内氏に従い、明応8年
(1499)豊前国小倉津合戦や永正8年(1511)山城国船岡山合戦
従軍して大内義興より感状を得ている。         
 
大内義隆が陶晴賢に討たれ、陶氏も毛利元就によって滅ぼされた後は、毛利氏に仕え長門国美祢郡下加万別府などの所領を安堵されています                        
        丸屋城(手前の半島)        

 

「毛利家文書」によれば、観応2年(1351)に、伊予国周桑郡北条郷の地頭・多賀谷氏が、下蒲刈島に所領を得たとあり、また「芸藩通志」には「多賀谷式部景茂、はじめて城く」と記されている。

 また、康応元年(1389)には、将軍足利義満が、厳島神社参詣を名目として大船団を組んで、西下したとき、多賀谷氏は当時、本拠を安芸に移し、大内氏配下の警固衆として活動ししていたという
 

丸屋城は下蒲刈島の北東部、天神鼻と呼ばれる半島に築かれています。 半島の西側は入江となっており「大津泊」と呼ばれ良港として栄えました。
現在は天神ヶ鼻の半島部分が公園として整備され、この部分に数条の堀切が残っています。

  下蒲刈の漁港
大津泊について
下蒲刈島は、古くから瀬戸内海航路における要衝として注目され、船泊として栄えていたところです。
 
中世には、多くの紀行文に「かまがり」の名前が記されていました。また、この海域を勢力圏としていた海の豪族多賀谷氏が
丸屋城に本拠を構え、城の西側の大きな入江(大津泊、大津湊ともいう)を「船隠し」、「船溜まり」としていました。
地乗り航路(安芸地乗り)をとっていた瀬戸内海往来の船舶の風よけのための停泊などにも利用していました
  
  堀切?

  堀切?を渡った所

  天神鼻上は見事な松並木です。
 松を維持するのにはこんな苦労も・・

 また平坦に戻ります

  だいぶ先の方へ来ました

  もう一つ堀切?

   渡って振り返る 

  まだ先があります

 

   安芸灘大橋

  本当の先っぽ

  川尻、安浦方面

  天神鼻の先

 
堀切跡くらいしか遺構がありませんでしたが、海を見ながら
松並木の中を歩くのは快適でした。            



 

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