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江戸の幕閣(保科正之) 

2015年01月05日 外部ブログ記事
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江戸時代の文化人

保科正之 ⇒大名、信濃高遠藩主、陸奥会津藩藩主、将軍徳川家光の異母弟

保科正之生涯
将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる
庶子の出産は、江戸城内で行われず、出産は武田信玄の次女である見性院で生まれた
見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される
長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が成人してからです
保科正光の跡を継ぎ高遠藩藩主、その後会津藩主
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。
第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。

保科正幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。
末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。
大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに多くの支出を差し向けたが、貨幣の改鋳などの経済政策の欠落もあり、幕府は急速に財政難へと陥っていった。
正之の死後、第5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。

保科正之と朱子学・神道
正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。正之は卜部神道第55代の伝統者である。[9]
また、熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した。
岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが藩政への積極的な参画を避けた。
加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。
また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に配流された。

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