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江戸の文化人(幕閣本多正純、井伊直孝) 

2014年12月28日 外部ブログ記事
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江戸時代の文化人

本多正純 ⇒武将、大名、江戸幕府の老中、宇都宮藩主、本多正信の長男
井伊直孝 ⇒譜代大名、近江彦根藩第藩主、井伊直政の次男














江戸の文化人(ネットより引用)

本多正純生涯
父と同様智謀家で、関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加
家康が大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まる(江戸秀忠に大久保忠隣、駿府家康に正純が補佐役)
正純は家康の懐刀として辣腕を振るい、比類なき権勢を有する
正純の家臣・岡本大八は、加増の詐欺事件を起す(岡本大八事件)
政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府政治は本多親子が牛耳る(大久保長安事件)

本多正純秀忠時代
家康と正信が没した後、江戸に転任して徳川秀忠の側近となり老中に列せられる
江戸でも権勢を誇り、秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる
亡き家康の遺命で宇都宮藩15万石の加増を受け、周囲からさらなる怨まれる
秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まる

本多正純失脚
鉄砲の秘密製造や、宇都宮城の無断修理、秀忠暗殺を画策した宇都宮城釣天井事件で、罪状嫌疑を突きつけられる
謀反に身に覚えがない正純は、処分5万石格下げを固辞、秀忠の逆鱗に触れる
本多家は改易され、出羽国由利へ流罪となり、後に出羽国横手にて幽閉の身となる
正純の失脚により、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強める

本多家のその後
息子の正勝は、長い幽閉生活で健康を害し早死にする
正勝の次男は、3,000石の旗本として家を再興している

本多正純人物・逸話
石田三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問
三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ、お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる
権勢欲が強かったことから、現在の歴史小説などでは、「家康の寵愛におもねる側近」として描かれることが多い

井伊直孝生涯
父の死後、家康の裁定で、井伊家の家臣は長男直勝に、武田氏の遺臣は直孝に配属された
大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された
井伊家の家督を継ぐよう正式に命じられ、18万石のうち彦根藩15万石を拝領した(直勝は安中藩3万石を分知される)
大坂夏の陣におい、豊臣秀頼母子を自害に追い込み、勇猛さは「井伊の赤牛」と恐れられた

江戸幕府宿老
秀忠は臨終に際して、直孝と松平忠明を枕元に呼び、将軍徳川家光の後見役に任じた
家光からも絶大な信頼を得て、徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた

井伊直孝の逸話
質素倹約を旨として、粗末な身なりで畳も敷かず竹のすのこで寝ていた
医者が「不養生が過ぎる」ととがめると「戦場では湿った土の上でも寝るもの」と言い返す

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