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江戸の文化人(幕臣本多正信) 

2014年12月27日 外部ブログ記事
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江戸時代の文化人

本多正信 ⇒大名、徳川家康の重臣、江戸幕府の老中、相模国玉縄藩主

本多正信の生誕
鷹匠として徳川家康に仕え、桶狭間の戦いで、膝に傷を負い足に障害
三河一向一揆が起こると、家康に敵対する、一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔
諸国を流浪した末、家康への帰参を嘆願し無事に徳川氏に帰参する








本田正信(ネットより引用)

本多正信表舞台へ
家康の旧武田領を併合により、武田家臣団の精鋭を取り込み甲斐・信濃の実際の統治を担当
家康が関東に移ると、相模国玉縄で1万石の大名となる
秀吉死去後、家康が覇権奪取を行なう過程で活躍
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い遅参している

本多正信が初期幕政を牛耳る
家康が将軍職に就任するに際して、朝廷との交渉で尽力した
江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった
秀忠が第2代将軍になると、秀忠の顧問的立場として幕政を主導し秀忠付の年寄(老中)となる
家康の正信に対する信任はあつく大老にまで昇進

本多正信と徳川家康との関係
家康は正信を参謀として重用し「友」と呼ん
正信が何を言っているのか、第三者には理解できなくても、家康は理解できた
逸話として、本田正信の換言を、家康は「へつらう者が多く、彼の忠なる心が嬉しい」と述べた
それを聞いた正信は嬉し涙を流し、この事を後に嫡子の正純に知らせ家訓とした

加増を断る・嫡子への訓戒
権勢を振るった正信ですが、正信の領地は相模玉縄に1万石でした
子正純に「我の死後、汝は必ず増地を賜るだろうが、3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ」と
「3万石以上は受けてはならぬ、辞退しなければ、禍が必ず降り懸かる」と説いていた
子正純は、遺志に叛いて宇都宮15万石大封を得たために後に宇都宮城釣天井事件で失脚

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