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江戸の公家(三条実美、中山忠光) 

2014年12月25日 外部ブログ記事
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江戸時代の公家

三条実美 ⇒政治家(右・太政・内大臣&内閣総理大臣代理)
中山忠光 ⇒江戸末期の公家


















江戸の公家(ネットより引用)

三条実美の生涯
安政の大獄で処分された父実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家
長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求めた

八月十八日の政変
中川宮ら公武合体派の皇族・公卿と薩摩藩・会津藩らが連動した政変で朝廷を追われ長州へ移る(七卿落ち)
第一次長州征伐(幕長戦争)で福岡藩へ預けられ、3年間の幽閉生活
薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の高杉晋作らが太宰府の延寿王院に集まり時勢を語る

三条実美明治政府での活躍
王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる
征韓論での政府内対立では、西郷らの征韓派と岩倉具視らの征韓反対派の板挟みになり議定辞任

三条実美黒田内閣での代理総理大臣に
条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、外務大臣の大隈重信が右脚切断の重傷
明治天皇は、黒田清隆を辞任させ、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させ内閣を存続させた
2ケ月後、伊藤が内閣総理大臣に就任、実美は名誉職の内大臣へ
「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが趨勢です

中山忠光の尊王攘夷活動
真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって、公武合体派の排斥運動では急先鋒となる
長州藩に身を投じ、官位を返上し、下関における外国船砲撃に参加
攘夷先鋒の勅命を奉じると称して、大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)
しかし八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放される
長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、長州藩内俗論派が台頭し刺客によって暗殺された
墓所は山口県下関市の中山神社境内にある

忘れ形見・仲子とその末裔
長府藩潜伏中に寵愛した侍妾恩地トミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産む
忠光の正室富子が、仲子を引き取り養育し公家の姫として育てる
忘れ形見の仲子は、嵯峨公勝夫人となった
愛新覚羅溥傑に嫁いだ浩は、忠光の曾孫です

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