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江戸時代の天皇 

2014年12月11日 外部ブログ記事
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明正天皇  ⇒後水尾天皇の第二皇女(母は徳川秀忠の娘)
後光明天皇 ⇒

明正天皇
江戸幕府への憤りを覚えた父・後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として7歳で践祚した。
これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。
治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことは何一つなかった。
寛永20年(1643年)21歳で異母弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位して太上天皇となった
のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)に崩御した。享年74。
古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない。」という不文律があった[1]。

徳川家は当初、かつての摂関家のように天皇の外戚になることを意図して東福門院の入内を図ったが、実際に明正天皇が即位することで反対に、外部と隔離されることとなった。
こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている[4]。
勧修寺にある寝殿(明正殿)と書院(重要文化財)は、明正天皇が生活した御殿を彼女の死後に移築したものである。
書院は土佐光起親子が書いた障壁画で有名であるが、これらの絵画は江戸幕府や後水尾上皇らの許可なしでは外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために、畿内の名所を書いたものと伝わる



後光明天皇
在位期間の12年は、将軍徳川家光から家綱の時代に相当している。東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。

天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して、これを奨励した。
初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。
また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような経学への傾倒に対し、和歌や『伊勢物語』・『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、
在位中は朝儀復興に心を砕いており、正保3年(1646年)に神宮例幣の儀を再興した。釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。

逸話
天皇は剣術を好んだが、京都所司代の板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めた。
すると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。
これに対して、重宗は大いに閉口し、幕府も畏服したという[3]。
天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという[4]。
しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある[5]。
宴の席で徳大寺公信より酒の飲み過ぎについて諫言された。
天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。
自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという[7]。
仏教を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いであった。開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利が有るのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた[8]。

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