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英雄達の選択『美の下克上』 

2014年10月25日 外部ブログ記事
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『落款』が消された長谷川等伯の絵画

長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師です
狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人です
長谷川等伯の描いた一部の絵画の『落款』は消され、現代になり再評価されています
NHKBSテレビ番組より












長谷川等伯(ネットより引用)

七尾時代(石川県)
能登国の戦国大名畠山氏に仕える下級家臣、奥村の子として生まれました
10代後半頃から、養父たちより絵の手ほどきを受けました
七尾は「小京都」と呼ばれるほど文化栄え、等伯の作品には都でも見られないほど良質の顔料が使われています
等伯は京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学びました

上洛、雌伏の時代
狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち、千利休ら茶人たちから、中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立しました
『等伯画伯』は、雪舟ら日本の絵師について触れつつも、大半は南宋や元時代の絵の画家たちの内容で占められています

中央画壇にデビュー
千利休切腹の一因ともなる大徳寺三門の壁画制作を依頼され描き、有名絵師の仲間入りしました
仙洞御所対屋障壁画の注文を得るが、狩野永徳の妨害工作で取り消され、その後狩野派との競争が激化しました
狩野永徳が急死すると、祥雲寺障壁画制作を長谷川派が引き受け、世に一流絵師として認められました
画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた、長谷川久蔵に先立たれてしまいました

「雪舟五代」を名乗る
雪舟の名を全面に押し出しつつ、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言し狩野派と争いました
法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼受けました
長谷川等伯は、高所から落ち、利き腕である右手の自由を失いました

長谷川等伯の再評価
27歳頃に描いたとされる日蓮の肖像画が見つかったり、「宝塔絵曼荼羅」は等伯と養父との合作と解りました
歴史小説にも主人公として取り上げられ、萩耿介『松林図屏風』や、安部龍太郎『等伯』といった作品が存在します

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