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島原の乱で幕藩体制確立 

2014年09月23日 外部ブログ記事
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日本における島原の乱の歴史的意義は?

日本の歴史上最も大規模な一揆で、日本での宗教戦争です
治世者が人を支配する時、権力での支配は、現世の約束、宗教での支配は来世迄約束します
宗教による支配は、死後も約束してくれる為、仕事、軍隊でも、力が最大限発揮されます?
島原の乱は、5ケ月で終結しましたが、死亡者は3万5千人で、その地区を壊滅しました
島原の乱の平定により、幕藩体制が固まり、その後の200年の平和に結びつきました
























島原の乱(ネットより引用)

島原の乱勃発の原因
領主は、ルソン島遠征、島原城を新築のために領民から年貢を過重に取り立てました
年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンは、拷問・処刑されました
領民が、過重な年貢負担、キリシタンの迫害で、藩に対して起こした反乱です
小西行長他改易により大量に発生した浪人を中心に、一揆の為の組織が出来ました
一揆の首謀者たちは、カリスマ的な人気を得ている、天草四郎を一揆軍の総大将とし決起しました

島原藩は、天草へ討伐軍を出しました負けました
一揆軍は島原城下に押し寄せ島原城を略奪しました
天草四郎を戴いた一揆軍は、本渡城などの天草支配の拠点を攻撃し成功しました
一揆軍の目的は、日本国内を内乱状態とし、ポルトガルの援軍を期待しました

幕府は、鎮圧に板倉重昌、石谷貞清を、最終的に松平信綱を派遣しました
板倉重昌中心に、九州諸藩による討伐軍は、総攻撃を行いましたが失敗しました
幕府軍は、老中松平信綱を12万の軍勢で派遣し、討伐軍は城を完全包囲しました
幕府軍は、一揆軍が兵糧が残り少ないことを確認し、信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えました
兵糧攻めの効果で、城内の食料、弾薬は尽きかけており、総攻撃で原城は落城しました

幕府の一揆軍への処分
島原半島と天草諸島のカトリック信徒は、ほぼ根絶の処分で、但し一部は、隠れキリシタンとして残りました
島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めました
藩主松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰されました

天草四郎
キリシタン大名の関ヶ原の戦いに敗れた、小西行長の孫です
聡明で、慈悲深く、容姿端麗で、カリスマ性有り、一目惚れする容姿でした
島原の乱では、カリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将ですが、乱の実質的な指揮者は浪人です
幕府の攻撃で、原城陥落後の生死は不明です(キリスト教では自殺が禁じられています)
原城跡をはじめ天草、島原など天草四郎の銅像が、複数箇所にあります

松平信綱(官職名、松平伊豆守信綱)履歴&仕事
家光の小姓⇒御小姓組番頭⇒従五位下伊豆守⇒武蔵国忍藩主⇒老中と出世しました
老中の時代「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定しました
寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定し、将軍直轄の体制を固めました

松平信綱の人物・逸話
才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」と称されました
将軍家光は「我ほど果報の者はあるまじ、右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆(松平信綱)」と述べていました
柳生宗矩、春日局、松平信綱は、家光を支えた「鼎の脚」の1人です
酒井忠勝は「信綱と知恵比べをしてはならない、信綱は人間と申すものではない」と評しています

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