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昭和の時代を振り返る-1(はじめに) 

2014年07月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



好奇高齢者入りを目前に 昭和の時代を検証する。

人生80年とすれば、自分の生た「昭和の時代」は、一生の6割以上の時間である。     
この平和な平成の御世にになって過ごせし時間を改めて思い起こすべき、これよりその歴史を手繰ってみる。

記述は、その年毎の「出来事」・「時代背景」・「流行歌」などなどをからめ、自分を織り込んで独断と偏見により 不定期的に綴ることとする。

先ずは、大正天皇の崩御からである。

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     ◆おそれ多くも かしこくも◆

昭和天皇の父帝である大正天皇について見ておく。

大正天皇は明治12年8月31日、東京の青山御所でお生になっている。生母は典侍・柳原愛子で、所謂妾腹である。早速明宮嘉仁親王と命名されたが、生まれつきの病弱から、これが生涯付きまとうことになる。誕生の翌年には、中山忠敬の屋敷に里子に出され、8才の誕生日の時に正室の養子となる。明治天皇は昭憲皇太后との間に皇子女が得られず、側室出生の親王・内親王ら4人も、大正天皇の出生以前に相次いで亡くなっていたため、皇太子となったのである。この時、生母が柳原愛子と知った時には大きな衝撃を受けられたとある。

  ー明治22年・立太子の礼を挙げる、明治33年・嘉仁親王・九條節子と結婚ー

「病弱の皇太子に早めの結婚を」と願った周囲の声に後押しされてのものといわれている。ただ、寂しい幼少時代を過ごした親王にとっては非常にうれしい出来事だったらしく、幼少期以来優れなかった健康がこの時期回復していったそうである。

この結婚の時に、日本各地で記念として桜が大量に植樹された。日本=桜という概念が生まれたのもこの時期であるといわれている。結婚後は明治天皇とは対照的に一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという。その後の親王は日本各地を回り、気さくで、身分のわけ隔てなく万民に気軽に声をおかけになったそうである。

これは葉山御用邸で崩御、長く会えなかった実母の手を握ったまま、享年48歳の若さでお隠れになっている。当時、万世一系を地でゆく明治天皇が、一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。1912年、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王・皇位を継承、しかし即位後は生来の病弱さと、思ったことをすぐ言動に出す性格から、「頼りない」「頭が弱い」という認識が、政界でささやかれていたようだ。

このため、後々にも世上に「影の薄い天皇」として一般に認識されることになったのである。それは大正6年頃から、公務や心労などが重なって再び健康状態を悪化さてたことによる。そのため公務を休むことが多くなり、大正8年には皇太子・裕仁親王が摂政に就任されている。よってますます影が薄くなっていったのである。 

1926年12月25日午前1時25分、大正天皇・崩御

つづく

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