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行きたい場所、武田信玄の育った町 

2014年05月11日 外部ブログ記事
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武田信玄( 武田晴信)道散策

BS11で、『武田信玄』の2時間番組有りましたので、興味深く視聴しました
信玄の出家し「玄」の字は中国では臨済義玄の「玄」よりとり、信玄と付けたのは妙心寺派の岐秀元伯です
上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いで、信玄は信濃を領国化しました
「風林火山」の軍旗を用い、無敵の騎馬軍団を率い領土拡大しましたが、西上作戦の途上信濃で病没しました

















武田信玄(引用)

岐秀元伯(武田信玄幼少時の教育)
京都妙心寺の学僧で、信玄の母親の招き長禅寺の住職となりました
信玄の思想、考え方は、岐秀の影響を多く受けております
信玄は、長善寺を甲府に移し、岐秀を開山としました

快川紹喜(武田信玄成人時の教育)
信玄は、恵林寺を保護し、菩提寺と定め、快川紹喜を招きました
信玄の戦術、「孫子の旗」等も快川の影響を受けています
信玄の葬儀や、7回忌の仏事には快川が大導師を勤めています
武田氏が滅亡した後に、残党武士が恵林寺に逃げ込み、その為織田軍勢に焼き討ちに会いました
快川紹喜は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」発し焼死しました
《どんな苦しみにあっても、心の持ち方ひとつで、その苦しみをしのぐことができる》

武田信玄の出生から甲斐継承
父信虎は、甲斐統一し、家臣団組織を整備し戦国大名としての地位を確立しました
信虎の戦争に従軍しましたが、父信虎の寵愛は次男に移りました
信玄は、重臣らと共に父信虎の駿河追放を行ない、武田家の家督を相続しました

戦国時代の甲信周辺の拡大
信玄は、家督を相続すると父の路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行いました
諏訪領への侵攻し、諏訪領を制圧しましたが、砥石城で信玄は大敗を喫しました
その後、部下真田の策略で砥石城は落城し、北信を除き信玄は信濃を平定しました

信玄の上杉謙信との戦い
上杉謙信は、信濃出兵を開始し、以後善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となりました(川中島の戦い)
北関東で謙信と抗争の間、北条氏と軍事同盟を結び、謙信の圧力に有効に機能させました
川中島合戦和睦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しました

信玄の外交方針転換で今川・北条との戦い
北条領国へ圧力を加え、三増峠の戦いで北条勢を撃退しました
将軍足利義昭は、織田信長を滅ぼすべく、信玄や他の大名に信長討伐の御内書を発送しました
信玄信長の盟友である徳川家康を討つべく、三河侵攻を行いました
信玄は、西上作戦途上で喀血し、武田軍は進撃を停止、撤退途上三河街道上で死去しました

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