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雑感日記

1966年、レース担当最後の年のこと 

2014年04月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 
★昨日、古澤幸二さんから、Facebook にこんな投稿があった。
 
 
  
懐かしくて、この投稿にコメントしようかとも思ったが、
1966年は私にとって忘れることのできない1年なのである。
折角の機会だからと、旧い日記を引っ張りだして、読み直してみた。
 
この年が私にとって、広告宣伝もファクトリーレース担当も最後の年だったのである。
そして、カワサキのレースにとっては、モトクロスではF21Mが世に出て、山本、歳森、梅津、岡部、星野と最高のメンバーを揃えその地位は盤石のものとなった。
ロードレースでは、ジュニア、GPレースとも本格的な参戦の初年度であり、カワサキが初めてGPライダーとの契約をした年で、MFJ の運営委員などその担当を私がやっていたのである。
国内にW1,A1 が発表 発売され、実用車のカワサキからスポーツの中大型への脱皮の兆しが見えたそんな年だったのである。
 
折角、日記を開いてみたので、時系列にレースなど関係のあった事実を並べてみる。
 
 
 
★以下、その日になにがあったのか?  
ご覧頂ければ、大変な忘れられない1年であったことがお解り頂けると思う。
 
1月5日   初出の日にスズキの藤井敏雄君がカワサキとの契約の件でやってきて幕が開けた。
1月17日  FISCO の第1コーナーが危険と言うのでMFJ運営委員のメンバーが4輪で実地検証することになり走行、FISCOを誰よりも先に経験した。
2月27日  鈴鹿でGP125CCのテスト走行、三橋、藤井、金谷で、2分50秒が切れない。
2月27日  山本隆君の結婚式、32歳の若さで仲人を務める。 頼む方も頼む方だが、引き受ける方も引き受ける方である。でも、よかった、今でも付き合えている。
4月3日   第3回MFJ 全日本モトクロスGP  ノ―ビス125ccで木村夏也優勝、セニアは2位、3位になるも優勝果たせず。
4月10日   第4回スポニチ主催加古川モトクロス MX 優勝しても記事にならないので、カワサキがスポニチ主催に仕掛けたら大きく記事になった。 
4月18日  金谷秀夫が突然神戸葺合署にずっと以前の事件の関係で拘留される。この件大変だった。片山義美さんに何とか走れるようにと頼まれて、・・
4月27日  当時の監督安藤佶朗さんと神戸地検に検事さんを訪ねた。『君等ははどこに来て、誰にナニを言っているのか解ってるのか』と厳しく怒られたが、帰り際に一言『嘆願書を出せ』
今思うと、無鉄砲で非常識極まりないのだが、若くて一途だったのだと思う。
5月9日   金谷保釈、それでレースは走れるようになった。
その裁判は11月8日神戸地方裁判所で、カワサキの塚本事業本部長以下100名の連名嘆願書を出して、証人で出廷、その結果、執行猶予となった。ただ、執行期間中は海外レースへの出場が出来なかったのである。
6月23日  MFJ 運営委員会でホンダ、FISCOの第1コーナーが危険と、日本GP不参加声明。
7月     レースなどには関係ないが、ビートルズが日本にやってきてたのはこの時期なのである。
7月24日  青森岩木山でのMCFAJ 全日本モトクロスで、カワサキF21M がデビュー。圧倒的な強さを見せる。その後も連戦連勝。
8月27日  マン島のプラクティスで、藤井敏雄転倒死亡、マン島で遺体を発送して頂いたのは、ドイツ留学中の大槻幸雄さん(Z1開発責任者)日本側は私担当。
9月6日   日本GPへのカワサキの体制決定、総責任者山田熙明(後川重副社長)総監督中村治道 GP監督大槻幸雄、ジュニア監督安藤佶朗、マネージャー古谷
9月10日  ホンダの前川さんに外人ライダ―との契約の仕方を教えて貰いに鈴鹿まで走る。外人ライダ―との契約など初めてで、その術が社内では解らない。
9月18日  東日本ロードレースで、カワサキ初めてロードレースで優勝。 90cc村上、歳森、金谷、三橋と4位まで、250cc金谷、三橋と最高のでき。
9月19日  日本GP体制  谷口尚巳さんと契約。
9月27日  日本GP体制  デグナ―と契約。  9月27日はデグナ―の歓迎会
9月28日  日本GP体制  シモンズ来日、羽田空港に出迎え。
9月29日  デグナ―FISCO 走行中に転倒、ヘルメット割れるがそのまま現地で入院、
大丈夫と言うので明石病院まで連れて帰ったが、何日か後、容態急変、当時は明石病院に脳外科専門医居らず、対処が出来ない。急遽県立医大に転医。その間ドイツ語しか喋らず、医者も解らず大槻さんが通訳。10月27日デグナ―無事退院。残念ながらカワサキのデグナ―は実現しなかった。
 
★10月14日からFISCOでのプラクティスがあり、10月16日の本番でガリーニクソンー金谷の壮絶な戦いが行われたのである。
 この時のことを含めて、金谷秀夫のことをこんなブログに纏めている。
その中の記述の中に、このレースのことについては
66年10月FISCOでの日本GPのジュニア250でヤマハのG,ニクソンとの勝負は、私の脳裏に焼き付いている。先日、記録を調べてみたら、3位の三室とは37秒、4位和田とは1分14秒差で、6位以下を一周遅れにしている。最高ラップを2分14秒27で金谷、G、ニクソンが同タイムで取っている。その日の350ccの最高ラップが2分18秒56であることからも、如何に二人が飛びぬけて早かったことが窺がえる。 
 
そんな想い出いっぱいの日本GPだったのだが、このレースが終わって、明石に戻ったら、
10月18日  来年から仙台に事務所を創って東北6県を担当するようにとの異動指令が出たのである。
未だ、事務所など影も形もないし、何をするのかも決まっていない。
兎に角行って新しい体制を創ってくれないか?と言う相談のような形ではあったが、
私は、それを指示と受け止めて、それ以降は11月末までに広告とレースの仕事のまとめと引き継ぎの準備をし、
12月から1ヶ月は新しい仕事の準備に入ったのである。
 
10月21日  デグナ―無事退院。 然し契約の仕方が間違っていて、円で契約していたものだから、当時は円を渡しても国外には持ち出せないのである。
日銀の神戸支店に頼みこんで、顛末書を書いてやっと何とかなったのである。『知りませんでした』といったら『君は知っていなくても、川崎航空機が知らなかったとは言えないよ」などと言われたりしたが、何とかなったのである。
11月に入って、翌年度のライダー契約だけは何とか済ませておいた。
モトクロス関連は、   山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義
ロードレース関連は、 安良岡健、金谷秀夫、村上力
 
余談だが、村上力君の名前がどうしても思い出せなくて、Google で 『神戸木の実  村上』で検索したら、
こんなブログが現れたのである。
そこにこんな写真も、村上力さんも、ちゃんと載っていたのである。 ネットの世界は素晴らしいし、ちゃんと纏めてくれている仲間も素晴らしい。
      
 
 
今日は、古澤幸二さんのお陰で、懐かしい想い出の数々をちゃんと纏めることができてよかったと思ってます。
古澤さん、どうも有難うございました。
 
 
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