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菩提所観音寺跡  

2014年04月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

          観音寺跡
観音寺は非常に大きな寺院で永正十四年(1517)12月には室町幕府の勅使・上野信孝が宿泊。
天文十年(1541)から始まる月山富田城の戦いの際には宿泊所として大内義隆が長期にわたって逗留したとされる
 
その後、熊谷氏が毛利家臣として勢力を拡大すると、
観音寺も大いに栄えたが天正十九年(1591)頃に広島城が完成すると熊谷氏も広島城下に移住し慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍に味方して敗れると、熊谷氏も毛利氏に従い萩へと移り住んだ。
そのため観音寺も徐々に寂れていき、廃寺となった。
                 (ウィキペディア)
 
 高さ約3M長さ110Mの石垣
 吉川元春館の石垣と同じ造りで10Mほど長い

 出入り口 

  石垣上より観音堂を見る 

  まだまだ続く石垣

           観音堂入口 左は民家

 

建物はこの観音堂しかありません

 

 

熊谷氏の定紋の穂矢を刻んだ古い須弥壇を安置した観音堂


 永正十四年(1517)有田の戦いで当主の熊谷元直は討死し
元直の遺体を家臣が持ち帰らなかったことに憤慨した元直の妻は、女一人で有田まで出掛け、夫の元直の遺体を探した。
遺体は見付けたが女手で持ち帰るにはあまりにも重く、泣く泣く元直の右腕を切断して持ち帰った。
その腕を洗ったとされる井戸が現存している。

          井戸の上から

熊谷氏菩提墓所

子供の頃は墓など怖くて近寄れなかったですが
今では山の中に一人でも近づいて見に行ってしまう
これは古い見事な宝筐印塔

 

墓所から高松山城を臨む

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