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 桜尾城跡 

2014年04月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

      桜尾城跡
承久3年(1221年)の承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を築いた。しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配であった。しかし時代が下り、幕政が混乱すると藤原氏が下向して桜尾城に入城し、直接支配するようになった。

室町時代には武田氏の武田信賢が厳島神主家の社領に侵入し、永享13年/嘉吉元年(1441年)には桜尾城も包囲されるに至ったが撃退した。その後は大内氏の傘下に入り、桜尾城も平穏であったが、戦国時代になると家督を巡って一族で争いが起き、長い内紛の結果、友田興藤が家督を継承し、桜尾城を新たな居城とした。その後、大内氏が家督に介入してきたため、興藤は尼子氏と通じて天文10年(1541年)に大内氏を離反したが、逆に大内義隆に攻撃され桜尾城は落城、興藤は自害した。友田興藤自害後は、大内家臣の佐伯景弘が新たな当主となった。

天文24年(1555年)の厳島の戦いの前哨戦で、桜尾城は毛利元就の支配下に入り、桂元澄が城主として入城、厳島の戦いでの後方支援を担った。その後も桜尾城は桂元澄の居城として続くが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になる。
 
厳島の戦いの後に自害した陶晴隆の首実検もこの城で行われた。
 
豊臣秀吉が九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣している。

  築城当時は三方を海に囲まれた海城でした

                                                  桜尾城とその時代より
           東側の登り口

              

 

 
宮島がうっすらと見えます。
往時にはすぐ下まで海でした。

桂元澄の子孫である内閣総理大臣の桂太郎が   この城址を買い取り廿日市市に寄付しました。
桂公園とよばれています。

  遺構はありません

 

  北西側の斜面 城跡といえば城跡

      東側の登り口

中央のマンションの向こう側の洞雲寺に
歴代城主の友田興藤、桂元澄、毛利(穂井田)元清の墓があります。
陶晴賢の首塚もあります。


 
 

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