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備中高松城 

2014年03月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

                       備中高松城
         味方は遠い
うっすら見える右の山(庚申山)に吉川元春
       左の山(日差山)に小早川隆景

すぐ東の石井山に秀吉本陣
山の白い旗が本陣の場所

 

二の丸 公園化されています

宗治蓮

昭和57年に沼を復元したら自然に蓮まで生えてきました。                   

             本丸

     辞世の句碑       清水宗治首塚

 
 

 
 
 
 
 
          資料館も充実しています。

水攻め模型

1985 年6 月20 日高松洪水により奇しくも
高松城水攻めの再現となりました。

資料館の説明では秀吉が3〜4キロの長さを築いたという堤は実は300m位であったという。
 
現に堤防の無い1985年の洪水で高松城が水没しています。
2012年の豪雨でもかなり水没しています。
 
       蛙ケ鼻(かわずがはな)
 
秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根ー蛙ケ鼻(かわずがはな)−から、西北西約1,500mの足守川上流まで約3㎞の堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられている。
堤防の内側は約200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまった。
江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤(だいえんてい)と記録されている。
近年の一部発掘調査によって基底部幅約22〜24m(12〜13間)ということが確認され、築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵、むしろ等が確認された。

資料館の説明ではここが水の吐け口なのでここから300m位塞げばここから北は湖になるとのことでした。

このあたりの山は古墳だらけなので人骨も俵とともに出てきました。               



         秀吉本陣

       本陣から見た高松城
    黄色◎の位置が清水宗治自刃の地


   まさにこの図のような感じだった?

 
ちょっとガッカリ 本陣から500Mも歩いて・・
            太閤岩 展望無し

**岩とか**腰掛け岩とかに当たり無し

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