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ZRX1200S城

賀儀城 浦(乃美)宗勝の城 

2014年03月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

     賀儀城
  コンクリートで固められています。

 


        浦(乃美)宗勝
大永七年(1527)乃美賢勝の子として生まれる。
父、浦元安の養子であったが、元々の乃美氏を名乗っていたため、宗勝も乃美氏を称し小早川氏を継承した小早川隆景に仕えた。
 
天文二十四年(1555)の厳島の戦いでは自身の血縁関係もあり村上水軍と交渉し味方に引き入れた。
 
その後も隆景に従い、小早川水軍の主力として活躍の主力として各地で活動する。
天文二十四年(1555)10月より始まる防長計略でも水軍を率いて活動し、毛利氏が九州に進出するとそれに従い活躍
 
永禄四年(1561)の門司城攻防戦では敵前に上陸し、大友方の勇将・伊美弾正と一騎打ちを演じ、負傷するも伊美弾正の首を取った。
永禄八年(1565)には所領に賀儀城を築城し、拠点とする。
 
博多の支配を目論む毛利元就は九州侵攻を継続し、前哨戦となった伊予出兵でも主力として活躍。
永禄十二年(1569)の立花山攻防戦でも活躍する。
立花山城攻略後、城代となり、筑前防衛の主将として行動した。
 
大内輝弘が長門に侵入(大内輝弘の乱)すると毛利領内は混乱し
毛利軍主力は大内輝弘征伐のために立花山城から撤退することとなった。
わずかな兵と、しんがりとして立花山城に残った宗勝だが、
翌永禄十三年(1570)に開城し、戸次 鑑連(立花 道雪)に城を明け渡した。
開城の約束通り毛利軍は安芸へ撤退し、戸次鑑連(立花 道雪)もそれを追撃することはなかった。
 
 
天正四年(1576)5月に三木軍と合流して5,000の兵で播磨国衆の中でも親織田派であった小寺義高(黒田官兵衛)と交戦するも敗北した(英賀合戦)。
 
同年9月の第一次木津川口の戦いでは総大将として出陣し、織田氏配下の九鬼水軍と戦い九鬼水軍を壊滅させ石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功している。
天正六年(1578)の、第二次木津川口の戦いでは鉄甲船を使用した九鬼水軍の前に敗北を喫した。
天正七年(1579)に別所長治が籠城する三木城への兵糧搬入を成功させている。
 
天正二十年(1592)文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣した。
 
しかし現地で病を得て、帰国後の同年9月23日に、立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋で死去。法名は宗勝寺殿天與勝運大居士
 
大友戦では毛利軍のなかで最も活躍し、戸次鑑連(立花 道雪)は宗勝を高く評価した。
生涯に亘って毛利元就、小早川隆景、毛利輝元、豊臣秀吉の4人から戦功ありとして15通の感状を受け取った。
 
   登ってすぐの小さな郭?

   登城路は整備され元の道は不明

   二の丸?長い郭です。

   土塁跡?不明です。

   二の丸から東を見る。

           本丸を見る

            本丸下

    本丸の帯郭らしい

   切り落とした?跡
   
 
 
かなり整備されていて本来の姿はわかりません

            帯郭西側 便所?倉庫?


帯郭を上がったところ

西に床浦神社が見えます。


            大久野島 奥は大三島
 
                
       海側から本丸を見る
      本丸は広い平坦地です。  
       大きな忠魂碑が建つ

 
浦の名の 花やほまれの 古城跡
     竹原市 忠海出身の俳人 阪田桃雨の句です

   

      
             忠魂碑 
      
 
       昭和二九年四月一六日 建
       他には何も書かれていません。


         忠魂碑より海を臨む

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