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福山城の北側を歩く2 

2014年03月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

福山城の北側を歩く
蓮池(どんどん池)

 
ここは当時、吉津川を堰き止めて造られた「蓮池」呼ばれる人工池となっていて近代水道が敷設される明治末期まで上水道の沈殿池として利用されていました。                    
 
「どんどん」の由来は水が蓮池の樋門を通過するときに
ドン・ドン・ドンと音を立てたことからといわれます

 

定福寺(じょうふくじ)


浄土宗寺院。慶長年間に水野勝成の妻の菩提寺として三河狩屋(愛知県)に建立されたといわれる。
水野勝成の転封とともに、狩屋→大和郡山→福山と移ったとされる。元和7年(1621年)に城下北西端に建てられる。長者口に南面していた。
 
天領の時代に下屋敷(城下南端)の弁天堂が境内に移されたという。阿部氏の時代に藩の菩提所となっています。
 
定福寺には2基の巨大な五輪塔があります。
いずれも水野勝成の妻を葬った墓で、
向かって右側が香源院(こうげんいん)二代勝俊を産んだ勝成の正室於登久(おとく)の墓
勝成が父忠重から勘当され備後・備中各地を流浪中の慶長二年
備中成羽城主三村家に寄食中、藤井入道斎利直の娘、於登久
(おとく)と結ばれ、翌年には勝俊が誕生します。
参勤交代制により、於登久は江戸住まいとなり、1647年(正保4年)に大坂で死去します。
勝俊が母の遺骨を引き取って、香源院として定福寺に手厚く葬りました。
 
左側が良樹院(りょうじゅいん)
勝成の継室で於珊(おさん)の墓です。
                             勝成は別に於珊(おさん)を妻に迎えます。
備中成羽城主三村家親(いえちか)の娘であり、生前歯痛に悩まされたようで、晩年「後世歯を病むものあれば、我墓に祈るべし」と言い残し、歯痛の神とあがめられたといいます。
於珊は於登久より13年早い1634年(寛永11年)に死没し、
良樹院と送り名されました。
 



  定福寺西(長者町)の道は現在も水野時代と同じで細かなクランクまでそのままです。
由来は不明ですが福山城築城以前から町があったらしく、
かつて城地に存在した常興寺の門前町であった可能性があります。


大体こんなコースでした。


   古地図と同じ道が面白い。

   美術館横で解散

   街中からは天守閣は殆ど見えません。


 

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