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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母と西郷隆盛の接点 

2013年09月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



先日の会津旅行で「堀田節夫著『西郷頼母』歴史春秋社」を
買い求めてきました。堀田氏は「西郷頼母研究会」の代表
ですので、「西郷頼母」の真実を正しくとらえている方
でしょう。

西郷頼母の「保科姓」を継いだ「保科近一」や、甥の
「和田晋」。霊山神社で頼母に仕えた「堀江覚治」ら、
頼母を直接知る人たちの証言が綴られていて、頼母の
実像が明らかにされています。

そして この書では、「西郷頼母と大東流合気術の関係」を
示すものや、「西郷四郎が実子ではないか」というような
もろもろの“噂”には、全く触れていません。

会津藩家老の「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」。
共に、室町時代の菊池氏を遠祖とする。「たのも」に
「たかもり」。名前まで似ている。但し「隆盛」は
実は父親の名前と取り違えられたもので、本名は
「吉之助」。そして「頼母」の長男の名は「吉十郎」。
これも似ている。そこで、二人は親交があったのでは
ないかと噂されている。


「西郷頼母」が鶴ヶ城を逐われたのも、実は、越後口に
いた「西郷隆盛」と会って、密かに会津戦争の終結を
図っていたからなどという話まで創られている。その
確証はない。


堀田節夫の『西郷頼母』では、「西郷吉之助(隆盛)」と
親交があったとされる史料を3点 明らかにしている。

?明治3年2月、西郷頼母は館林藩での幽閉を解かれる。
共に函館で捕えられ古河藩に幽閉されていた弟の「山田陽次郎」も
解放されるが、弟「陽次郎」は、その年の12月「雲井龍雄事件」に
関連して捕えられる。「雲井龍雄」は米沢藩の人。薩長閥の
新政府に抗議して、蜂起しようとして捕えられ 斬罪となった。

弟の逮捕で、西郷頼母も雲井龍雄との関係を疑われる。その時、
西郷隆盛に救済を依頼したようだ。「西郷隆盛」からの返書が
昭和53年公開された。「申し遣わされた件(ご依頼の件)
ご安心ください。しかし 首謀者の処分は天命と あきらめるより
仕方ありません」という内容。西郷頼母は、自身と弟「陽次郎」の
助命を「西郷隆盛」に依頼したのではないかと推察される。
しかし、弟「陽次郎」は 獄舎で拷問に遭ったか、病死する。

?明治3〜4年頃、「西郷吉之助」から「西郷頼母」宛て
20両が贈られたことを示す 熨斗紙が公開されている。

これは私の推測だが、「頼母」一家が伊豆に移住する資金
として送られたのではないだろうか。

?そして 明治10年、西南戦争。「西郷頼母」は「都々古別
神社」の神官を務めていたが、「西郷隆盛に組した疑いで解任
された」と、頼母自身『栖雲記』に書き記している。



「西郷隆盛」との接点を示す資料はこれだけだが、このことから
頼母の子息「吉十郎」は、「函館戦争後、西郷隆盛に預けられ、
アメリカに留学し、西南戦争にも加わっていた。頼母は、吉十郎を
支援するための物資を送ったが、荷物は政府軍に差し押さえられ、
「西郷隆盛に通じている」という嫌疑をかけられたなど、
尾ひれがついて書かれているが、これについては 確証は無し。

子息「吉十郎」は、箱(函)館の「沢辺家」に預けてきたことは、
頼母自身が書き記している。堀田節夫著『西郷頼母』によれば、

「吉十郎」は箱館で、ギリシャ正教の神父となっていた「沢辺琢磨」に
預けられた。「沢辺琢磨」は、なんと「坂本龍馬」の従弟の
「山本数馬」。NHK大河ドラマ『坂本龍馬』でも登場していた。
拾った時計を質屋に売ったことがバレて、江戸払いとなった人物。
その後、箱館に逃れて、「神明宮宮司・沢辺梯之助」の婿養子
となり「沢辺琢磨」と改名していた。「吉十郎」はその沢辺家に
預けられていたという。

坂本龍馬の従弟「山本数馬」。『八重の桜』の山本八重の兄は
「山本覚馬」。ややこしかぁ。

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