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清 鏡 寺 清水宗治の供養塔 

2013年09月15日 外部ブログ記事
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       清 鏡 寺
 
古くは吉祥寺と称した。
後に毛利藩寄組士立野村給領主清水士の先祖で天正10年(1582)羽柴秀吉の高松城の水攻めで知られる備中国(岡山県)吉備郡高松城の城主清水宗治の菩提寺となり宗治の法名(高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士)によって分禄3年(1594)山号を高松山、寺号を清 鏡 寺と改めた。
今もなお、清 鏡 寺には宗治に位牌が安置されている。
境内の裏側には嫡子景治が建立した宗治他高松城で殉死した家臣らの供養塔があり寺宝として宗治の乗鞍、高松城の陣鐘がある。 (境内の観光協会による案内板より)
  
 
  山門

    本堂

 

 


 
清水宗治 供養塔

端の宝筐印塔、五輪塔


 
 
 
 
 
 
 
 
 
   太子堂  山の中まで地蔵が並んでいます。




   おおきな宝筐印塔  こちらは仔細不明




 
清水宗治の供養塔を建てたのは次男の清水 景治
(しみず かげはる)で小早川家臣、後に毛利家臣
天正十年(1582)の備中高松父が切腹した後に小早川隆景に仕えた。
景治は秀吉からも大名として取立て、直臣になるように勧誘されたがこれを拒否し、小早川家臣でいることを選んだ。
文禄慶長の役でも小早川軍の一員として朝鮮に渡って活動した。
 
毛利の防長移封に伴い、父以来の功績によって一門家老に次ぐ寄組士の席に列し、野原村・浅江村・島田村・立野村(光市)において計2500石余りを領した。
そこで景治は野原村に下屋敷を構え、浅江村の吉祥寺を高松山清鏡寺と改名し、父の菩提寺とした。
 
清水 景治は優秀な人物だったらしく
益田元祥の副役として財政再建にも協力し、能吏として毛利氏を支えた。
寛永九年(1632)には益田元祥の後釜となり長州藩の財政を支え続けた。
子孫は長州藩の家老まで登り、禁門の変の責任を取って元治元年(1864)に自害した親知(清太郎)が出る。
息子の死後、父の親春が再度家督を継ぎ、明治維新で活躍しには男爵の爵位を与えられた。(ウィキペディア)
 
萩でもいい所に屋敷もらってます




 

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