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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」と「伊与田きみ」 

2013年07月24日 外部ブログ記事
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『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に「頼母」と「きみ」の
写真が2葉掲載された。これによって、「頼母」の
今までのイメージが一変した。

「西郷頼母」といえば、「戊辰戦争で“非戦論者”であった
ため、卑怯者、臆病者との謗りを受け、一家全員が自刃、
長男吉十郎も若死にして、一人生き残り、晩年は、東照宮の
神官を勤めたりしながら、寂しく生涯を終えた」という
イメージだったが、どうしてどうして・・・・・。

まず一枚の写真は「明治5年、西伊豆江奈村」で「きみ」と
伊豆の名家の倅「依田勉三」の三人で撮ったもの。
「頼母」43歳、「きみ」26歳。
依田家の子孫が保存していた。この年、伊豆の名主「佐藤源吉」や
豪農の「依田佐二平」によって「謹申学舎」が建てられ、
西郷頼母がその塾長として迎えられた。一緒に写っている
「依田勉三」は「「依田佐二平」の弟で、塾生の一人。
後に上京して慶応義塾にも学び、北海道帯広の開拓に勤めた。


もう一枚の写真は「明治19年、頼母57歳」。
「きみ」は40歳、でも20代の時と変わらぬ美貌。
そして「頼母」より背丈は大きい。

横浜で撮影されたもので、横浜市の「石山」家が所蔵。
明治19年なら「頼母」は「日光東照宮の禰宜」だった
はずである。

旧主「松平容保」が「東照宮の宮司」となり、その補佐役
として指名され、日光の山奥で、二人で静かに晩年を
過ごしていたと思いきや、「松平容保は 日光には行かな
かった」という説もある。名ばかりの宮司だったようだ。
そして「頼母」もこうして、夫婦で横浜に出てくることが
可能だったのだ。今でこそ、日光東照宮は観光名所だが
徳川が滅びた直後では、参拝する人も“稀れ”だったのかも。


では、この時、なぜ「横浜」に?
撮影者は、2葉とも「鈴木真一」という写真家。
実は「頼母」の妹「美遠子」の嫁ぎ先で、当時著名な写真家の
一人で、横浜に「写真館」を開いていた。

伊豆の「依田勉三」は鈴木真一の甥であるという。いやはや驚き。

会津戦争で「頼母」の妹「眉寿子(25歳)」と由布子(22歳)の
二人が自刃して果てたが、その他に「頼母」には 妹5人、
弟は3人もいた。「頼母」も2男、5女の7人を設けている。
親子そろって子だくさんである。

そしてさらに、養子「四郎」が「伊与田きみ」との実子ではないか
と噂されているのである。

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