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たかが一人、されど一人

月刊「文藝春秋」 昭和33年新年号 

2013年07月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

小中時代は遊び呆けてはいたが、お勉強もどちらかと言えば平均よりは少し上の辺りにいたかもしれない。特に国語と英語が好きで、小学生の頃は貸本屋と学校の図書室をよく利用していた。中学になると専ら学校の図書室を利用して、翻訳小説(子供対象でなく大人向けの本格的なもの)を読み始めた。15歳頃まではこういった事も多少勉強の役に立ったのかもしれない。ところが高校に入学するとお勉強は急降下の一途を辿り、3年生になる頃は約400人強の生徒の中で300番近辺をうろつく始末になってしまった。読む小説も中学くらいまでは戦前から名作されてきた内外の小説を主に読んでいたが、高校では下らないと言っては著者に失礼かもしれぬが、柴田連三郎、五味康介、山手樹一郎と言った戦後売出し作家の通俗時代小説を読みふけっていたような気がする。もちろんこんなものが高校の国語の役に立つ筈は無い。文法も古文も全く駄目、いつも落第すれすれの低空飛行だった。数学に至っては落第点もしばしば、3年で無事卒業できたのが不思議かもしれぬ。その高校3年生の時が1958年の昭和33年、特別の思いがあった訳でもないが、昨日ふと思いついて図書館でこの年の月刊文藝春秋何冊かをパラパラと読んでみた。古い雑誌がデジタル化されていて、パソコン画面で通読できるので便利至極、時間潰しにはもってこいである。18歳と言えば今でも昔でもいい大人である。当時新聞や雑誌を読んでいた記憶はないが、ラジオのニュースは毎朝15分ほど聞いていた筈である。しかし恥ずかしながら、一般社会情勢について何の記憶も無い。記憶に残っているのは己の周辺に起きたことのみ。翌年上京して、砂川基地闘争に行こうとか更に翌年の安保改定反対デモに誘われても動かなかったのは、如何にに社会常識に欠けた子供だったかと言うことだ。今、記憶にあるのは、上京して最初に住んだのが新宿だったこともあり、東京とは昼夜の別なく騒々しく埃っぽい街だったこと、投票権は無かったが都知事選挙があり、東竜太郎氏が当選して、ひょっとすると日本でオリンピック開催が実現するかもしれぬと思ったことくらいかな。上京すると、部屋に携帯ラジオが1台あるにはあったが、遊びに忙しくニュースを聞くことも殆ど無くなったのだろう。時は高度成長の直前、まさに戦後が終わろうとしていた時のようで、文藝春秋の姿かたちは現在のそれと大差が無い。強いて言えば広告のサイズが相当異なり、ページを4分割した広告が目立つ。往時を想い感想は多々あるが、新年号の巻頭随筆からメモをしてきたことの一つを紹介したい。中村 融(東大講師 ロシヤ文学者)日本は元々ロシアを敵国視していたせいか、文学についてもロシア文学に関しては研究室に予算もつかなかった。中村氏が昨年ソ連への渡航を志した際に文部省は旅券も発行しなかったので、氏はついに東大を辞職してようやく渡航が可能になる。結局クレムリンでフルシチョフとも面会が適い、その話をするとフルシチョフが「君は英雄だ」大いに笑った。とあり、最後にこう締めくくる。「正しい批判は正しい認識の上にしか生まれない。」

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