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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母は合気道の祖か? 

2013年07月04日 外部ブログ記事
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「西郷頼母」と「西郷四郎」の接点として考えられているのが
「合気道」です。

「Wikipwdia」でも「四郎は、16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となり、
霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられ、頼母から柔術の
手ほどきを受ける」とあります。ネットの多くが この説を
とりあげていますが、しかし、「頼母」が霊山の宮司に
なるのは、もっと後、最晩年ですから、これは勝手な思い込みです。

「西郷頼母」は、先祖代々主君の側近に仕える身、万が一、君公が
襲われた時、咄嗟に刀を使わずに相手を倒す、防御の術「御式内」
という武術を、先祖代々継承していた。

「西郷四郎」が講道館に入門して僅かの歳月で、講道館を代表する
柔道家になれたのは、「御式内」の基礎があったからである。
彼が得意とした「山嵐」も、「御式内」の術のひとつだった。

などと まことしやかに書かれているのですが、会津通の私でも
“はてな?”です。藩の記録には「御式内」のことも、「西郷頼母」が
「御式内」の継承者であったということも全く出てきません。

これはどうやら「大東流 合気柔術」の「由緒書」に書かれている
ようで、「頼母」は「合気道」の祖のように言われています。

「西郷四郎」を開祖とする「西郷派大東流合気武術」という団体も
あるそうです。しかし、「西郷四郎」が養父「西郷頼母」から
武術を学んだという史料や伝承は皆無です。

そして「西郷頼母」と「四郎」が疎遠になったのは、「頼母」は
「四郎」に会津「御式内」を継承してもらいたかったのに、
「四郎」は「合気道」より「柔道」の道を選んだからとも
言われています。これも憶測で、小説なら面白いのですが・・・。


さらには、後継者を失った「西郷頼母」は「御式内合気術」を
会津のお抱え力士の家に生まれた「武田惣角」に伝授し、
「武田惣角」から「植芝盛平」に、植芝から「富木謙治」に
伝えられた。今日「合気道」と名乗る各流派は、この三名の
いずれかを始祖と仰いでいるというのです。

「西郷四郎」は柔道、四郎の養父「頼母」は「合気道」の祖と
いつのまにか 定説になっしまったようです。会津戦争では
“臆病者、卑怯者”といわれた「西郷頼母」が、今、合気道の
世界では“流祖”にまつりあげられているとは、あの世で
「頼母」は苦笑していることでしょう。

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