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昭和2年生まれの航海日誌

 イヌビワの友 (2) 

2013年06月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 さくら前線が北上し始めていた。

 朝、母屋の東にある醸造倉のところに立っていたら、Yが通り
かかった。
 そうだ、今日は出立の日なのだ。

 黒い児童服ではなく、カーキ色の服を着けていた。
 帽子、靴までは覚えていないが、腰につけた薄緑色のお守りに
なぜか鮮明なイメージを受けてしまった。

 しかし、その時、後日、このお守りが話の根源になるとは、思い
もよらなかった。

 いよいよ出立の日が来ている。
 それにしても、どうして、今頃在所の中を歩くのだろう。
 暫しlの別れか、それとも永遠の別れになるかもしれない。
歩いてみよう、という気になったのであろう。

 姿を見た。
「元気でやれよ!」と、 声がかけられなかった。
如在のないことだけでは許されないことだ。悔やんだ。

 あの頃は人のことだけではない、自分のことで精一杯であった。
 すっかり忘れていたある日、一通の封書が届いた。

 Yが釜山から発信したもので、”すずらん”の押し花が入っていた。
 「ありがとう、これから滿蒙へ向うが、便りはするぞ!」

 でも、現地に入植してからは音信が全く絶えてしまった。

不幸なことには、父子が別れた一年後、麦秋の繁忙期の中で
働き者の父は他界していた。

 母も
  「雑談するときは、手を休めなかった。毛筆は達者だった」と
 と、悲しんでいた。妻に先立たれ、悪戦苦闘のすえ、3兄弟を
 育て上げた労苦を、男に代わって称賛したのだと思う。


 当時は出征兵士等へ家族の訃報を伝えることは、御法度となって
いたのである。 本人は知るよしもない。

 それに困ったことに、Yは、あのお守りを落とし失ってしまていた。
 落としたときは、さほどでもなかった。

 父に聞けばよいだけのことであるが、まあ、その必要もあるまい。

 国を出るとき、父親が、
「寂しくて、苦しくて、きつくて、もうどうしようもない、と思ったら、
 お守りを開けて見よ!」と言い聞かされて渡された。

 そのお守りを落とし、なくしてしまった。薄緑色のお守りである。
 でも、それだけなら父に聞け分かることだし、会えればその
必要もない。
 父が死んでは
 知るための、術が何一つなく消え去っていたのである。
 若いYはそれから、悩み続けた。

 

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