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雑感日記

金運 お金について思うこと−1 

2010年08月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


今回自分史を書きだしてから、余計に思うのは、『運が良かった』と心底そう思うのである。戦前、戦後の昭和の時代、そしてネット社会の新しい平成も、もう20年も過ぎた。こんな時代の大変化は、多分もうなかなか経験することは出来ないだろう。そんな時代を生きれたことは、『大幸運』であったと思う。★そんな私の人生の中で『お金』についてもちょっと普通ではない経験から、ちょっと違ったお金への考えもある。いろんな意味で『金運』も非常によかったと、これも心底そう思っている。今後も『金運』は、そんなに悪くならないと勝手にそう思っている。なぜなら、死ぬまでは何をしなくても年金が貰えるからである。そんなに大した額ではないが、お金などその程度あれば十分だと思っているのである。金など幾らあっても決して幸せになったりはしないと思っているのである。★戦争が終わるまで小学校のころは、お金はいっぱいあったに違いない。年に2回、ソウルから日本に帰ってくるときは1等車だったし、明石では伯父がその当時から運転手つきのアメリカ製の自家用車で、あちこちに連れて行ってくれた。そのころの神戸の花隈や有馬の料亭で大勢の芸妓さんのいる宴席に、小学生のころ何度も連れて行ってもらったりした。大人の芸者遊びがどんなに他愛のないバカげたものかと、子供のころにそう思っていた。夏は、明石の海で泳いでいたのだが、頼みもしないのに伯父は庭に結構立派なプールを作ってくれたりした。当時、伯父夫婦には子供がいなかったので、跡取りとして私にたいしては想像以上の溺愛だったのであtる。父や母は、それをあまりいいことだとも、思っていなかったようだが、休みのときだけだからとあまり表には出さなかったのだと思う。京城の家では、とにかく『お金』と言うものを意識したことがない生活であった。父は特に働きに出るでもなく、家で絵を書いたりしていたのが印象に残っている。子供のころから、『お年玉』も『小遣い』も貰った経験がない。子供はお金とは無縁で育てられた。多分株の配当だけで食えたのだと思うが、父は外で遊んだりはしなかったが、同じ兄弟で仲もいいのに性格は全く別で、伯父は酒と遊びが趣味みたいな生活だった。金があるための伯母の気苦労などを見ていると、『金はあんまりない方がいい』と子供心にそう思ったものである。★ところが戦後、現実に金のない生活に遭遇した。家族1人1000円だけの所持金で引き揚げてきたのである。当初は、伯父の家族と一緒の生活であったが、まだ上の丸には3000坪に近い土地だけは残っていた。多分生活費は、伯父が面倒を見てくれたのだと思う。祖父の遺産の財産分けはしていなかったので、父はそのことにはなんの遠慮もしていなかったようである。ずっと伯父の家との同居もと言うことで、敷地の南側の600坪くらいの土地の真ん中に、バラックのような一軒家を立てたのである。。母がこっそり引き上げの時に隠して持ち帰った指輪を売ったら家が建ったそうである。その後父は明石の友人たちと神戸で証券会社などを起こしたのだが、通勤の電車で転んだのが原因で、脊髄カリエスで3年ほど寝込んでしまったのである。家に収入は全くなくなり、そこから土地の売り食いが始まったのである。一時バブルのころは1坪100万円とも言われたこともある上の丸の土地だが、当時は1坪2000円ほどであった。私が高校生の頃の話だが、家の生活費は多分その土地の売り食いで賄われたのだと思うが、そのころも金の話は家の中で聞かされたこともない。高校3年夏の大会が終ってからは、流石に私もアルバイトで助けようと思った。同じやるなら、普通のアルバイトの日給の2倍にはなる神戸港の沖仲士の仕事(当時はアンコといわれていたが)、に朝4時から出かけて徹夜をやったりした。野球部の連中が一緒に行ってくれたりした。仕事はきつかったが、2,3日行くと1坪の土地が買えるほどの収入にはなったのである。★父は高校3年の1月に亡くなった。52歳であった。当時、母はまだ42歳で長男の私の下には4人の妹がいた。この一家の家計はその後母が一人で背負ったのである。もう父の療養の費用は要らなくなったので、伯父が大学に行けと薦めてくれて、私は2カ月間の受験勉強で大学に行ったのである。父は私を大学にやるために、1月2日などと正月に亡くなってくれたのかも知れない。大学は、引揚者の母子家庭で学費免除、特別奨学金をもらっていたので、毎月給料をもらって大学に行ったようなものである。勉強など一つもせずに野球一筋に専念していた学生生活であった。母には迷惑を掛けなかったが、かといって援けにも決してならなかった長男なのである。多分、家計は苦しかったとは思うが、母はこの時代も金の話など一切家では話題にしたりはしなかった。私は勝手に好き放題やっていたが、多分妹たちが家事の半分くらいはやっていたのかも知れない。★就職して自分で、金を稼ぐようになったが、初任給は12000円、、さすがに家に幾らかは入れたので、学生時代より苦しかった。その後、結婚した時の給料は3万円ほどで、家賃がその半分ほどだったので、とても小遣いなどは貰う気にもならなかった。そんなことで、私は小学校から今まで決まった小遣いなど貰った経験は一度もないのである。出張旅費などもあったりしたので、何とかなったのである。ただし、たばこ代から、車のガソリン代まで一切家からの支出であった。『煙草止めたら小遣い上げる』 などと言っていたが、50代で煙草は止めたが、その後もそのままである。★貯金など一切なかったのだが、土地を買って家を建てるころから時代が日本経済の成長期に入った。いまの土地と家とを買って20年ぐらいの返済だったが、初めの2年は返す金などないので、その2年分の返済額を余分に借り増してその金で払うことにした。何とかなるだろうと思っていたら、今の時代の人は想像もできないと思うが給料が25%、30%、などと毎年上がったのである。計算をされたら解るがこんなペースだと給料は直ぐ倍になるのである。それで2年後からの返済が可能にはなったのである。私は一切家計には関与しないし、給料は100%家内に直行であったが、専業主婦で他に収入もなくそんなに楽であったはずはない。仮に楽になったり幾らかでも貯金などが出来たのは、いわゆるサラリーマンの定年を終わってからのことである。そういう意味では、60歳以降が幾らかでも余裕ができて、70代の年金生活も気分的には、自由な時間があり十分豊かなのである。そんな、非常に運に恵まれた人生であったが、そんな人生で金についてどう思って生きてきたのか。明日でもその続きを書いてみたい。]]>

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