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昭和2年生まれの航海日誌

遠かった農上がり(2) 

2013年06月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 昔からこの地域では二毛作がおこなわれていた。
 農耕には和牛が使われ、それが原動力となり、補いは全て
人力でまかなわれた。

 そんな程度の零細農家では、高がしれた収入であって、どうしても
副業に依存しなければならなかった。

 養鶏,養蚕があった。
 養鶏の方は、昭和10年頃まで続いたが、当時の日本の食生活では
需給のバランスが崩れ、廃業をしなければならなくなった。。

 養蚕は、最も大きい貴重な収入原でもあった。
 昭和16年、日米開戦となるまで続いた。

 米国向けの大口輸出は中断されたが、国内需要もあった。
 ”パレンバン落下傘部隊”の落下傘も生糸製品である。

 でも、養蚕は大変過酷な仕事である。
 稚蚕共同飼育までは、そうでもないが、成育に伴い食欲が旺盛になる
と、飼料の桑摘みが大変な労力になった。

 労力だけではない桑園では,ブトとも戦わなければならなかった。
 いちど、虫に カブレルとその痒さは格別で、普通の労働の辛さとは
比較にならなかった。


 出産が迫った主婦にとっては、さらに重大な事であった。

 桑摘みに行ったとき、隣の畑に来る少女が居なかった。
 「どうしたんだろうな」
 「生糸工場へ行ったそうだ」 と母は答えた。

 むき出しの脛からブトに噛まれて真っ赤な血を流しがら懸命に桑を
摘んでいた。
 この春3月で小学校6年を卒業したばかりであった。
 私は、

とれた生糸のストッキングを履く人、生糸を生産する人では偉い差が
あるものだ、と思うようになっていた。

 生糸工場に行っても真面目に働く子ではあるが、所詮、女工哀史の
道を辿ることになるのでは、と余計な思い続けた。

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