メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

THEエクセレント エンペラー『慶喜』 

2013年03月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



徳川慶喜さんの『英断・聡明・功績』を、今更ながら再確認しブログ名『慶喜』にしました

徳川 慶喜
慶喜のお陰で、京都や江戸が焦土ならず、外国の介入も防げ、維新最大の功績者です
明治天皇(朝廷)を敬い、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行ないました


徳川慶喜(引用)

徳川慶喜(戸定公園蔵)

徳川慶喜が良く訪れた戸定邸(千葉県松戸市)

お墓(谷中霊園)

慶喜の生誕
江戸の水戸藩邸にて藩主・徳川斉昭の七男として生まれました
慶喜は優れており、長男・慶篤の控えとしと父親は考えていました


大政奉還の場所(二条城)

二条城
慶喜の将軍職
黒船来航の混乱時、将軍・家慶が病死し、第13代・徳川家定は病弱で男子を儲けられませんでした
第二次長州征伐で、幕府軍は敗れ14代将軍・家茂が大坂城で死去しました
15代将軍慶喜は、開国を指向し、開国体制に力を注ぎました
フランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造船所を設立し、軍制改革を行いました
1867年政権返上を明治天皇に上奏し、大政奉還しました
江戸総攻撃の前に、江戸城を新政府軍に明け渡し、水戸藩校弘道館へ謹慎しました

晩年の慶喜
政治的野心は持たず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送りました
公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、政治に携わりました

将軍慶喜としての人物
英邁さで知られ、権現様の再来とまで言われました
鳥羽・伏見の戦いでは、日本の将来を考え『負けて勝つ』の認識からの戦争中断の英断をしました
  (若し継続し戦えば長期戦は必至で、諸外国の介入を招くとの判断からです)
開城後は、寛永寺に謹慎し、後世天皇や朝廷を重んじる心ある者だと評価されています


徳川慶喜食事
徳川慶喜の逸話
晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車などの趣味に興じました
向島百花園には慶喜が書いた「日本橋」の文字が彫られた石柱が保存されています

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ