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「こやんぴ」のぶらりお散歩ブログ
『川越市史』にお詫びをしなければ
2013年02月05日
テーマ:川越周辺の鉄道、ないしょ話
東上鉄道の論文を書いた時の資料を、物置から出してきました。
人間の記憶なんてあてにはなりませんね。
(「人間の」ではなく、「koyampi58の」でした、失礼。)
『川越市史』には、自虐的コメントはありませんでした。あっちかな? と疑った『川越の歴史』(市制六十周年で各戸に配布されたもの。)にも無礼を働いてしまいました。こちらでもない。私の思い込みだったのかもしれません。
川越商人たちが反対した理由の一端を、『川越市史』はしっかりと記述していました。資料に当たらずにものを書く愚をおかしてしまった・・・。猛省が必要です。
江戸時代ばかりでなく、明治の中期頃まで、幹線鉄道の沿線から離れた地域にとっては、舟による輸送が唯一の大量輸送手段でした。道路が、狭い上に、雨が降ればぬかるむような貧弱なものでしたし、運搬手段だって、大八車や荷馬車程度でしたから、遠くまで重いもの、大量の物資を運ぶことが不可能だったからです。
ところが、現在の所沢市付近には、舟運で東京に直結するルートがない。したがって、所沢近辺から大消費地東京に運ぶ物資は、新河岸川舟運の河岸(かし)まで、ないしは、東京まで、少量ずつ陸路で運ぶのが一般だったようです。
(柳瀬川の利用があったのかどうかについて、私は未調査です。)
そこで、国鉄中央線の前身である甲武鉄道まで荷や旅客を運ぶ「川越鉄道」が企画されたわけなんですね。
『川越市史』は、川越鉄道に対する川越町人の非協力的な姿勢について、同線開通による川越の商圏縮小、経済的地盤沈下を恐れた結果であると説明しています。
「なるほどなあ」とは思うものの、う〜ん、それだけかなあ?
明治も20年代、30年代になると、輸送力の格段に優れた鉄道に対する認識は、地方人士の間にも深まっていました。鉄道ができれば、地域の一層の飛躍につながる可能性が高かったはず。始発駅を持つ川越の町人が、これを活用すれば、商圏の縮小どころか、拡大も期待できたのでは?
報知新聞に激越なアンチキャンペーンまで展開した川越商人の「川越鉄道憎し」の理由が、本当に商圏縮小だけなのか、そんなに川越商人って肝っ玉が小さかったの? そういう疑問は、まだ残ります。
長くなりすぎました。
他の理由として考えられることについては、『所沢市史』に、その推理が書きこまれてありましたが、「続く」ということで・・・
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