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雑感日記

小学生だった頃の時代 

2010年06月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


『自分史』というカテゴリーの中で書くとすれば、あまりいい加減なことも書けない。特に、時代背景というかその年表ぐらいは、ちゃんとあっていなくてはと思う。私が小学生の時代といえば、日中戦争から大東亜戦争(そう呼ばれていた)の真っ只中である。いつどうなったかというのも何となく覚えてはいるが、改めて年表で調べてみた。★昭和12年7月7日に日中戦争が始まっている。私の5歳の頃である。日中戦争の長期化で欧米と日本の関係は急速に悪化した。昭和16年12月8日にハワイ真珠湾攻撃があって、大東亜戦争は始まったのである。12月8日、よく覚えている小学校3年生の頃である。そして、昭和20年8月15日の終戦まで、外地で空襲などは一切無かったのだが、戦争のさなかに子供時代を過ごしたのである。こうしてみると、子供時代は戦争とともに過ごしていた。終戦間際の2年間ほどは、本土空襲などもあって、全く勝ち目の無い負け戦だったのだが、最初の半年から1年ほどは、その勝ちっぷりもすごかったのである。★ハワイ空襲のあとマレーシアを攻めた。シンガポールも直ぐ陥落したし、確か英国と豪州は降伏したのである。提灯行列が行われ、ゴムのボールを頂いた。確か、紀元2600年の翌年でみんな意気軒昂だったのである。世界地図の白地図が配られて、日本が占領したり統治したところは、赤く塗るように言われた。日本も朝鮮も台湾も満州も赤かったし、中国の半分ぐらいは赤く塗れた。そしマレーシヤもフィリッピンも、シンガポールは昭南島と名付けられたのである。今のインドネシアの半分くらいまでは、赤くなった。子供心に『世界はみんな赤く塗れる』と思ったものである。そこまでで、この塗り絵も終わりであった。★アメリカとの戦争が始まった小学生の3年生の頃から、5年生ごろまでは、夏冬の休みに朝鮮から明石まで帰省していた。そんなことで、戦災にあうまでの神戸、明石も何となく覚えているのである。関門海峡で連絡船が潜水艦に撃沈されてから、それからは本土空襲も始まって、とても帰省など悠長なことは言っていられなくなったのである。当時の朝鮮での小学生(確か小学校ではなく国民学校と呼ばれていた)は、今のように「子供、こども」でなく育てられたような気がする。親も学校の先生も、甘やかすことなくとにかく厳しかったような気がする。逆に、子供たちも親や先生に甘える態度など一切無かった。父に遊んでもらった経験など一度もない。★所謂、修身、道徳。「教育勅語」と「宣戦の大詔」を毎月聞かされて育った年代なのである。校長先生が読まれるのを直立不動の姿勢から頭をたれて、ただ聞いていた。教育勅語はただ、みんな暗記させられた。教育勅語はまだ何となく意味が解ったが、「宣戦の大詔」のほうは、ほとんどその意味も解らぬまま、毎月8日の大詔奉戴日には聞いていたのである。検索で調べてみたら、出てきたので、リンクしておきます。こんな難しいことを、その意味も特に解説無く一方的に聞かせていて、聞くほうも何の疑問も持たずに、襟を正して聞いていた。1年生から6年生まで、校庭にたって聞いていたのである。★そんな環境の中で、別に疎開も空襲もなく、授業は確りとやられたように思う。ただ、男女共学ではなくて、5年生からは兵隊さんが来て、教練らしきこともやったし、軍服のボタン付けなどもやらされた。ボタンは二の字に糸が真横になっていないと不合格で、斜めになったものは検査をする兵隊さんが鋏で容赦なく切って『やり直し』であった。ズボンの今ならチャックの部分の『まつり縫いを半針返し』でやらされたりもした。こんな環境の中で育ったが、トモダチとの遊びは結構楽しく、外で遊んでばかりいた。そんな子供の世界はチャンと独立して存在していたと思う。今の子供たちよりは、間違いなく確りしていたと思うのは、『思い過ごし』であろうか?若し仮にそれが正しかったとすれば、時代の環境がそうさせたのだと思う。最後までお読み頂いて有難うございました。お手数ですが、ちょっとクリックして頂けますか?]]>

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