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雑感日記
浅間火山レース
2012年06月26日
テーマ:テーマ無し
★『浅間火山レース』というレースがあったことは、何となく知ってはいたが、詳しいことはなんにも解っていなかった。
まだ、カワサキは二輪事業はまだやっていなかった時期の話なのである。
昨日も触れた、『二輪文化を伝える会』のFacebook ページの付録に、
『浅間火山レース』が添付されていたので、暇にまかせて読んでみた。
それが結構ややこしいのである。
詳しく知りたい方は、原文を読まれることをお勧めする。
★初めて行われたのは、
1955年(昭和30年) 第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース) と言う。
これは公道を使って行われた。 勿論、制限速度のある公道使用だから、最高速などは公表されなかったようである。
これがそのポスターなのだが、以下のような記述がある。
上の写真は、浅間記念館に展示してある1955年(昭和30年)公道を閉鎖して行われた、第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース)のポスターです。
1955年の第一回大会は、警察、町、県などのお目こぼし的に公道閉鎖という形で行われましたが、(さすがに制限時速を大きく超えるスピードで公然と走らせるわけにはいかなかったと見えレース結果のタイムは公表されず、トップとのタイム差のみが発表されるのみ)2回目以降の開催については公道使用は認められませんでした。
★ 1957年(昭和32年) 第2回浅間高原レースが行われているが、この時は浅間高原に未舗装のテストコースを造って行われている。
だから、1回と2回はレースの内容が異なるのである。
そこで、オートバイメーカーが国よりの補助金も受け浅間牧場内に専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」を建設し、1957年、1959年に第2回・第3回のレースが開催されました。浅間の火山灰を踏み固めた未舗装のコースでしたが国内唯一のクローズドサーキットであり、浅間は日本のモータースポーツのメッカとなったのです。
こんなコースだったようである。
★1958年(昭和33年)には 第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースが行われ
1959年(昭和34年)には 第3回浅間火山レースと 第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース が併催されたようで、以下のような記述がある。
MCFAJのレースは、58、59年の2回行われたと言うことなのだろうか?
第一回浅間高原レース後、以降の開催には専用のサーキットが必要とされました。オートバイメーカーが資金を出し合い、国からの援助も受けて、群馬県の農業試験場である浅間牧場の一部を借り受け日本初の専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」が1957年に完成しました。その年10月に第二回の浅間火山レースが行われ、交通の便も悪い中1万5千人もの観客を集め、大いに盛り上がりました。翌年は第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会が、そしてその翌年1959年には第3回浅間火山レ−ス(耐久レース)と第2回全日本モーターサイクルクラブマンレースが併せて開催され大盛況となるのですが、この大会を最後に浅間では大規模なレースは行われることなく、本来の目的である耐久テスト、寒冷地テストなどに使用されその後浅間牧場との貸借期間終了とともに閉鎖されました。
★ 私は昭和32年川崎航空機に入社しているのだが、この時期はまだカワサキは二輪事業には本格的に参入していないので、知る由もないのである。
浅間高原レース発祥の地碑(セーブオン駐車場にあります)
今はこんな碑が立っているらしい。
第2回火山レースで優勝を飾った メグロRZ
こちらは、第3回火山レースで優勝した CB92 である。
★以下はWikipedia からの時代背景である。
当時はこんな時代であった。まさに二輪車の黎明期と言えるだろう。
100社を超えるメーカーが存在したはずである。
1949年、2輪車を製造するメーカーや販売業者によって日本小型自動車工業会(小自工)が設立され、小自工主催により戦前の日本では唯一の常設レース場(オーバルのダートコース)だった多摩川スピードウェイで戦後初のレースイベントである全日本モーターサイクル選手権大会、通称「多摩川レース」が開催された。戦前のレースが観客からの収入を目的とした興行としてのものであったのに対し、130台の参加台数と2万人以上の観客を集めたこのイベントは、オートバイ業界から行政への規制緩和を求めるアピールの意味合いが強いものであった。
1950年には、千葉県の船橋にオートレース場が開設された。
こうした動きにも助けられて二輪車業界は活気づき、一時はオートバイメーカーが150社を超えるという盛況を迎える。
一方で駐留軍のアメリカ兵がBMWやトライアンフといったオートバイを持ち込んだことにより、外国製オートバイと日本製オートバイの圧倒的な性能差も明らかになっていた。オートバイ産業を重要視した政府は、オートバイ生産に対する補助や輸入車への高関税などにより国産オートバイに対する保護策をとり、1951年には通産省の主導により東京〜神戸700キロ耐久テスが行われた。
また前記の多摩川レースの成功もあって、乱立していたメーカーの間にも手っ取り早く自社のオートバイの性能を世間に認めてもらう手段としてのレースの有効性が認知され、やがて業界の中でマン島TTレースのようなレースを開催するという機運が高まっていた。
通称「富士登山レース」は地元富士宮市の観光協会主催であり、他のレースのようなオートバイ業界団体による主催ではなかったために個人で参加できるレースとして盛り上がりを見せ、1956年の第4回まで開催される大きなイベントとなっていった。
1954年3月には、ホンダ社長の本田宗一郎が突然マン島TTレース出場宣言を発表し、世間を驚かせた。
そんな状況にあって、国産オートバイの性能向上に自信を持ち始めた二輪業界の中で、もっと本格的なロードレースを開催しようという声が大きくなり、その実現に向けて小自工も具体的に動き始めた。
岩手県盛岡市郊外、東京都青梅市周辺、山中湖周辺などのいくつかの開催地案の中から浅間山麓周辺が開催候補地となり、地元の有力者である三代目星野嘉助の協力もあって群馬県や警察の認可を得ることができた。そして1955年、第1回全日本オートバイ耐久ロードレース、通称「第1回浅間高原(火山)レース」の開催が決定した。
★こんな記事を纏めたお陰で何となく状況が理解できた。
7月1日には、東京で 『酒井文人&クラブマンレースを語る会』というレース関係者の会合も開催される。
本田技研の元社長河島喜好さんも、浅間火山レースの監督などされていた関係で出席されるとか、
私も、平井稔男さんと山本隆君などと出席する予定なので、その予習みたいなもので、いい勉強になったのである。
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