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円明寺(えんめいじ)〜かつては西国一の大寺院?任助法親王の宝篋印塔 

2012年01月19日 外部ブログ記事
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円明寺

三宅山山王院円明寺  宗派:真言宗 高野山派

本尊は如意輪観世音菩薩(広島市重要有形文化財)

弘法大師が上不見山極楽寺に留錫(るしゃく)した時、この地をト(ぼく)して、国家安隠を祈願するため寺院を創建しました。かつては西国一と称された寺院でした。
 
淳仁(じゅんにん)天皇は三宅山の山号を記した勅額(ちょうがく)を下賜され勅願寺に指定しました。

安芸守に任じられた平清盛は、七堂伽藍をはじめ末寺十五坊を建立し、三宅村の地十八町歩を寺領として寄進しました。

建保年中(1213〜1218年)讃岐国(香川県)善通寺誕生院から僧宥雅(そうゆうが)が来て、当寺を再興
 
その後、関ヶ原合戦の後入封した福島正則の寺領没収にあい、無住の寺となってしまいました。

明治六年、円明寺再興を高野山当局に訴願して許可され正覚院(廿日市)が兼務することとなりました。

当寺は、新広島四国八十八か所第八番の霊場となっています。(五日市町大辞典より)





広島市佐伯区三宅にあります。
すぐ前を西広島バイパスが通り往時の姿は想像できません。


任助法親王の宝篋印塔 説明看板  


任助法親王(にんにょ・ほっしんのう):大永五年〜天正十二年(1525〜1584)  
法親王とは皇室において出家して親王宣下を受け僧籍となった皇子のことをいいます

伏見宮貞敦(さだあつ)親王の第4王子。後奈良天皇の猶子となられました。

天文八年(1539)御年15で出家し、京都仁和寺門跡二十世をつがれました。

晩年に九州地方御法流再興を思いたたれ、宮島まで御下りになって大聖院にお立ち寄りになりましたが、

大聖院良弁の遺弟良政が幼く、法務に堪えないので示論教授の為にしばらく御止まりになりました。

突然病に伏せられ、座禅のままお隠れになったと伝えられています。
御年60歳でした。

当時の人は厳島御室様といって敬慕していました。

ご位牌は極楽寺に、墓所は赤崎御室と呼ばれ宮島の対岸、現在のJR宮島駅西にあります。

円明寺と赤崎御室のどちらが墓所かの論争がおきましたが

昭和十六年四月、宮内庁発表で赤崎御室を墓所と確認、決定されました。

任助法親王の宝篋印塔 元文二年(1737)製
背面から


正面、任助ではなく仁助と彫られています。


本堂


この日は本堂内で住職さんがおられ、中まで拝見することが出来ました。
正覚寺(廿日市市)の住職が兼務しているそうです。

如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)(広島市重要有形文化財)
緻密ですばらしい像です。



左には阿弥陀仏 修復済だそうです。


右 棟札は手にとって見せてもらいました。
浅野家によるものです。


宝篋印塔下の墓石。由緒はわからず、このあたりにあった物を集めているそうです。


若い住職さんでしたが、色々詳しく説明していただきました。
写真があまり取れなかったので、赤崎御室と合わせまた行きたいと思います。

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