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速谷神社  笑う狛犬 

2012年01月15日 外部ブログ記事
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速谷神社

厳島神社兼帯七社も最後となりました。
もとは厳島神社よりも上位だった神社です。
交通安全祈願の神社として全国的に知られています。

祭神は飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)

ご鎮座の年代は詳かではありませんが、国造の子孫や安芸国の人々がご祭神の薨後、その恩徳を敬慕して奉斎した千七百有余年前の古社です。

嵯峨天皇(第52代さがてんのう786〜842)御代、弘仁二年(811)に名神に列し、
清和天皇の貞観元年(859)従五位上であった神階を従四位下に進め貞観九年(867)には従四位上に進められました。

醍醐天皇の延喜五年(905)の「延喜式神名帳」によれば、当社は名神大社に列せられ、国家鎮護の神社として毎年月次、祈年、新嘗の三祭に神祇官の奉幣にあずかり、当時いかに朝廷の崇敬に篤かったかがわかります。                   (速谷神社ホームページより)




延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)のなかでは、当社だけがこの殊遇をうけ、
安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇りました。

朱雀天皇の承平五年、藤原純友の乱に、朝廷は騒乱の平定を当社含めて全国十三社に祈願され、まもなくその乱が鎮定したので、神階を正四位下に進められました。

室町時代からは当国桜尾城主だった藤原親実以下歴代の城主、府中の田所氏、ついで周防の大内氏、芸備の大守毛利、福島・浅野諸氏も当社を深く崇敬し、神宝社領を寄進し神殿の造営修復を行いました。
大正十三年、国幣中社に列格、昭和二十一年官制廃止により、神社本庁所属の別表神社となりました。
                         (速谷神社ホームページより)


古代、速谷神社と厳島神社の神格は並んだり上下したりを繰り返していましたが、厳島神社が清盛の
庇護を受け、次第に厳島神社の上位が確立し長寛二年(1164)には厳島神社が安芸国の一宮と称されるようになりました。

速谷神社は中世より厳島神社の摂社となり文明十一年(1479)には厳島神主藤原教親が願主で梵鐘を寄進し、天文十年(1541)には大内義隆が太刀と神馬を寄進しています。

また、毛利元就は屋根の上葺料を寄進しており、厳島神主である藤原氏や大内氏・毛利氏など
各時代の領主の庇護を得ていました。

しかし、福島氏の時代には社領を取り上げられました。

幾度も火事に見舞われています。
江戸時代に入り慶安元年(1618)、元禄十一年(1698)、元禄十三年(1700)と社殿が焼失しましが、
藩主浅野氏によって再建されており、大正一三年に国幣中社に列せられ現在の神苑となりました。

昭和六十一年の火災で社殿が焼失して以降現在の社殿が造営されました。
 
古代から交通の守護神として知られており、現在も交通の安全を祈願する人が絶えません。

楼門

門を支える東西南北の4本の大柱は1本の檜の巨木を東西南北の方向に4等分したものが使われています。
檜が自生していた時と建てた時とで方角を同じにしておかないと、後々寸法が狂うそうです。


楼門下から参道を見る。


楼門下から境内、神門を見る。


神門、拝殿
境内の拝殿側はすべてが新しく綺麗です。


神門下から


拝殿 豪華です。


 
拝殿前の狛犬 あ 真新しいライオン君です。


うん



本殿の周りを廻ってみました。

境内社の稲荷神社
農耕殖産の神様「宇加之御魂神(うかのみたまのかみ」をお祀りしています。


あ形だけ残った文政十二年製の狛犬。片方は火事で消失したらしいです。
後から撮るとなんだか寂しそうですが


笑っているようです。



本殿
素木造銅板葺流造三間社


本殿の周りは拝殿前と打って変わり静寂な雰囲気です。

境内社の若木神社
古代、速谷神社鎮座前からこの地の主神だった「岩木翁神」をお祀りしています。


若木神社と本殿


境内内の駐車場に寛政年間の燈籠が並んでいます。



神宝館に重要文化財の木造狛犬・尊海文書など神社の神宝類があるのですが開いていませんでした。

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